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✽.。.:*·゚まえがき.。.:*·゚ ✽唐突ではありますが、この場を借りて私が過去に体験した尊い思い出話を流暢に語らせていただきたいと思います。
✽.。.:*·゚『ともだち』.。.:*·゚ ✽小学一年の頃、私のことを「好きだ」と周囲に吹聴していた学年で最も太った女子と下校時に遭遇しました。いきなり私の名前を大声で呼びながら迫って来た時は、今から相撲の取り組みが始まるのかと思って恐怖しました。 本場所まではまだ先の筈ですし、「番付の昇降」や「力士褒賞金」に影響を与えないとしても、その真に迫った取組に対する貪欲なまでの熱意を目の当たりにして、それ以来の私は太った女性に対する敬意の念を禁じ得えなくなりました。 同じく小1の頃、隣席のやたらと勉強のできる眼鏡を掛けた女子"中沢さん"の友人だった、やたらと男子に対抗意識を燃やす女子"カナ"の標的にされ、毎日のように些細なことで因縁を付けられて迷惑を被っていました。 男子に対抗意識を燃やすのは勝手ですが、クラスの男子で最弱とおぼしき私と張り合う意図が不明なので、ある日ついに堪忍袋の緒が切れて、心に思うことをすべてぶちまけたら驚いた顔をされました。 それから「対抗意識」が「好意」に変貌を遂げたのか、急に笑顔で絡んできたり、何気ない私の仕草を真似たり、プールの着替えの際に裸をこれみよがしに見せつけてくるようになったので少々困惑しました。 それから小3の頃に、教室で別の女子"アヤ"からラブレターをもらった時にカナはポカンと呆けた表情でこちらを見ていましたが、それ以降は特に接することもなくなりました。 小学二年の頃、集団登校中に見知らぬ田中真弓似のけがらわしいオバタリアンに「服が汚れとうで」と声を掛けられ、唐突に履物を下ろされた上で股間に接吻をされて呆然としましたが、他の児童は固唾を吞んで見守るだけだったので集団登校の意義がまったくもってさっぱりよく解せないことや、女にも並々ならぬ嬌態に奔る貪欲な性欲があることに気付いたのはさておき、ある日に"釘宮理恵"様のような可愛いらしい声の地味で真面目な女子"津軽さん"と『ポケモン』の話をしながら下校した時、私が足を滑らせて思いっきり前後開脚してしまったら、普段は大人しいその子が艶めかしい嬌笑をあげて「こんなに笑ったのは久しぶり」と非常に喜んでくれました。
小学三年になった時、見事に仲の良かった友達と別々のクラスになりました。 休み時間に教室で一人ぽつねんと座っていると、眼鏡を掛けた勉強のやたらと出来る女子"中沢さん"が「友達になろう」と声を掛けてくれました。その子は計算が驚くほど迅速で字も達筆でしたが、何よりも祖母のことを「ばあや」と呼ぶ辺り、純粋に育ちが良かったのだと思います。納豆を食べる習慣があまりない神戸市内ではめずらしく、納豆が好きなのだとか。 ラスボス戦前まで進行した『ロマサガ3』のセーブデータを見せてもらったこともありますが、大人でも途中で頓挫するようなゲームをよくクリアするまで根気強くプレイ出来たなと感心しました。 しかしながら体育の授業の時に中沢さんが官能的な息遣いで妖艶に微笑みながら私の股間にそっと手を触れてきても抵抗できなかったので、私は未だに眼鏡を掛けた女性に逆らえません。 小学三年の頃、あまり接点のないクラスの女子"アヤ"と偶然下校が重なったときに「一緒に帰ろう」と誘われ、分かれ道まで一緒に下校しました。 道中で「乾いた唇は舐めればいい」と教わったのと、上着を腰に巻くトレンディーな着こなしを教わったこと以外は特に印象は残りませんでした。 ある日のこと。竹刀を振るいながら「戦後教育の厳しさ」を滔々と語る担任教師"鬼塚"(漫画『GTO』が愛読書)に嫌気がさし始めた頃、家庭の経済状況が芳しくなり両親共働きになり、帰宅後に一人で冷めた食事を電子レンジで温めることや、かといって気質の異なる幼馴染宅で、家族が帰宅する時間までお邪魔する日々に漠然とした不安が募り始めました。それに追い打ちをかけるように鬼塚が授業で「俺はスパルタ教育を徹底する。学校に来たくない奴は来なくてもいい!」と竹刀を片手に発言した際に「その手もあったか!」と、人の発言を真に受けやすい私は後日から不登校になりました。 それから数週間後、所用で学校に立ち寄った時にアヤからラブレターを手渡されました。以前も登校の時に意を決して通学路を引き返したとき、偶然にも私の後ろを歩いていたアヤが驚いた表情を浮かべていましたが、心配してくれていたのでしょう。 アヤから手渡されたラブレターの内容は「ずっと前から好きでした。こんど家に遊びに来てください。早く学校に戻って来てね」という簡潔なものでしたが、私は返事を返せなかったし、学校にも戻りませんでした。 それ以降、授業自体は受けませんでしたが、小学五年の行事である自然学校には遠足感覚で抜け目なく参加しました。電車移動の時にアヤからお菓子を手渡されて、流石に今はもう根に持っていないことを確認できて何だか安心したのでした。 自然学校
私にとって美しいものとは人工的に創り出されたものの中にはなく、それは瞬く星の光のように、自然の中にあると確信した瞬間でした。 宿泊施設の廊下の隅で、友達と座りながら談話していたら千葉繁氏似の教師が「"〇〇"は小説を読んだことはあるのか。面白いぞ~!」と教えてくれましたが、今にして思えば私が教師から教わったことの中で、文学とは無縁の家庭に育った身として、生活に役立ったのはその一言だけだったような気もします。 閑話休題小学三年生の頃に漠然と懐いた疑問とは、人はいつか必ず死んでしまうという前提のもとで教育機関の学校に通い、勉学に励みながら様々な人々と出逢ったとしても、積み重ねて得た知識や人と築いた記憶、その時に感じた感情もいつかは必ず跡形もなく消えてしまうことや、このまま大学に進学して卒業した上で企業に就職し、家庭を築き、子供を儲け、更にその子供も同じように家庭を築くという一連の連鎖や人類の営み自体がいつしか潰えてしまう無常そのものであり、そこに自分の求める幸せは端から存在しないかも知れないという一抹の不安でした。 端的に言えば「人は皆いつか死んでしまうのに、それでも何を理由にして生きるのか」という哲学的観念に小学生の時点で挫折してしまったのです。 今ならその問いに明確な答えを出せますが、当時の私には手に負えない難題でした。喩え今は明確な目標がなくとも、学童の得意科目から適職を導き出すのも教育機関の役割ですし、大学を卒業すれば業種の選択肢も増えます。 人として生まれた以上、学び続けなければ衰退するというのは勿論ですが、就職して働く為に必要な資格が学歴なのだから、向上心を持って自分自身の限界に挑むのもいいですし、無理のない程度に自分自身のレベルに合った身の置き場を探す為にも、何事に対しても適度に臨めば悔いのない時間を過ごすことも出来る筈です。 しかしながら例えば、恵まれた家庭環境や学校生活なんてものは社会に出てから幾ら稼いでも絶対に取り返せないし、金では手に入らないものです。しかし、それでも腐らず真面目に生きた方が周囲以上に本人の為にもなるのだから、私は大変身勝手ながら努力という言葉が大嫌いですが、今ではそれに値するのが学び・働き・生きるという人の概念だと結論しました。 人はいつか必ず死んでしまうからこそ、生という概念に価値が生じます。
富や名声を得る為に生きようが、些細で平穏な日常や、誰かにとっての幸福を求める為に生きようが、自分の生き方や目的なんてものは大人になったら自分の頭で考えて決断できるでしょう。 大人なら自分の頭で考えて自己責任で済みますが、それでもどこかでまだ未成年の子供が岐路に立たされているとして、周囲の大人達がしっかりと導く必要があるのも大人の役割だと私は考えています。 家庭環境や学校、今の職場だけが世界の全容ではないのだから、現状や将来を悲観する必要はないと、そこはしっかりと伝えなくてはいけません。 子供の頃は女友達だけではなく、クラスの内外に10人以上の男友達も居ましたし、兄やその友人とも毎日遊んで居ましたが、今となっては対人関係において子供の頃の交友関係が何の役にも立っていないことから察するに、子供は大人しく勉学に励んだ方が無難だと思います。 大人の交友関係なんて飲み屋で酒を飲みながらくだをまくだけで、はっきり言えば時間と金の浪費ですが、かと言って今更になって童心に帰り虫取りや鬼ごっこをしたところで更に虚しいだけです。大勢集まって酒を酌み交わすより、独り読書や創作活動をした方が智識は増えますし、お小遣い稼ぎにもなるでしょう。 子供の頃から薄々は勘付いていましたが、友人と遊ぶのは別に苦ではないにしろ、友人と別れた時の解放感は仕事を定時に終えて解放される瞬間と似ています。 それなら最初から独りで居ればいいだけの話です。 結局のところ私は独りぼっちの方がお似合いということなのでしょう。 だから気の向いた時だけ本当に気の合う友と巡り逢えればそれでいい。
番外編小学五年生の頃、幼馴染の家に、夏休みを利用して彼の従兄妹二人が泊りがけで遊びにやって来ました。 毎日のようにツン汰とその弟、さらにその従兄妹たちと遊びましたが、なぜか私が高い所からジャンプしたりするたびに従妹から「かっこいい!」とべた褒めされて少々困惑したのでした。当時ツン汰と共にハマった『デジモン』の"ガルルモン"を見て「変わったデジモンやね」と解せないことを言われました。 転んだ子を見ても指をさして笑わない冷めた性格がめずらしいのか、従妹に気に入られたのかも知れません。 現代では品行方正な学童が増えましたが、少し前の世代まで遡ると竹刀で叩かない限り指示を聞かない児童が多かったので、戦後教育では教師が竹刀を振るったようです。 ほぼ全ての女子小学生がそうであるように、転んだ"ツン汰の弟"にそっと手を差し伸べる彼女自身の方がよほど人徳者だったと思うのですけど。 私はどちらかといえば妹よりも年上のお姉さん派でしたが、それ以来は年下も悪くないのではという葛藤を抱えるようになりました。 ✽.。.:*·゚ ✽.。.:*·゚ ✽ 「だーれだ?」 小2の昼休み、校庭の隅でまどろんでいたら、不覚にも後から視界を遮られました。 目隠しされながら聞いた声は聞き覚えがありませんでしたが、正面に回り込まれて見た姿もやはり記憶にない女子でした。 ✽.。.:*·゚ ✽.。.:*·゚ ✽
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