プロフィール
神戸出身。僅差で昭和時代に生誕。
広島平和記念日生まれの次男坊。琉球三世の長崎被爆三世。
東京都、横浜市、大阪府、アメリカ合衆国ニューヨーク州に親類あり。
父は長崎市出身、宗派は《浄土真宗》
母は兵庫県高砂市出身、宗派は《浄土宗西山禅林寺派》
どちらもお経は「南無阿弥陀仏《num-amida-butz》」
80年代末に東京の親戚宅で撮影された写真。「関東・関西・九州・沖縄」に由来を持つ日本列島の民が東北建築の真骨頂【縁側】に集結した《文化人類学》の観点から見て貴重な一枚。
※当人たちは、その文化的な稀少価値にまだ気付いておりません
長崎市
長崎で代々続く資産家の家系に父は誕生しました。しかし、物心のつく前に両親が騙されて土地と財産を失い離婚。
両親を失った幼い父は、祖母の家に引き取られて育てられました。しばらく祖母を実母だと思い、たまに会いに来る親戚のおばさんがじつは実母だったと知るのは少し先の話。小学生の頃から貧困生活を補助するため、子守りの仕事を手伝うこともありました。
しかし、父は高校進学を親戚の保護者に許されず、15歳で学業を終えると単身で長崎から神戸に引越して働き始めました。
当時は国の奨学金制度もなく、経済的な理由で進学を断念する学生が多くいました。ちなみに2024年時点でも、学生の3分の1は奨学金制度を利用しています。
長男の父は無き親に代わって働き、祖母への仕送りと、弟と妹の大学進学のための学費を稼ぎました。よく「九州は保守的で、女は大学に行く必要がないと言われる」とされますが、昭和20~30年代生まれでも本来は大学進学が前提の家系だったのは希少でしょう。
▲若かりし頃の父
その後、2tトラック運転手になり神戸から築地市場までの300kmを往復する日々。当時の2tトラック運転手としてはめずらしく「絶対に遅刻せず、品物の個数も間違わない」として重宝されたそうです。バブル時代の追い風もあり、当時の月給は50万円。
三十路の頃に同僚の紹介で母と出逢い結婚。それから数年後に親戚の仕事を手伝うため転職しますが、それはまた別の話。
長崎出身の父と、兵庫出身の母の共通項として「元々は裕福な家庭だったのに、親戚に騙されて財産を失った」という境遇に共感したのも結婚の理由とのこと。
父が母との結婚を決意した時は「不美人だな……と思いながらプロポーズした」「外国人のような容姿だったから」と、当時の心境を言葉少なげに語っていました。
 ▲結婚当初の父(齢30歳)
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兵庫県高砂市
昔々、播磨地方に近隣の農家を束ねる百姓の男がおりました。
男は喫茶店を経営する傍ら、農村の頭の百姓として近隣の農家にノルマを課して白米を徴収し、それを町に卸売り一代にして富を築きました。
農家にとって白米は百姓に納める為のものなので、紺屋の白袴のごとく農家自身は白米を食べられず、百姓以外は玄米を食していたそうです。
百姓の男は身内に厳しく、娘に向かって心無い言葉を投げかけることもありました。
しかしその一方で飼っていた白い大型犬や猫には優しく、姿を見せなくなった飼い猫を数週間かけて探し、ついに発見した猫の亡骸を悼み庭に埋葬して供養するほど大切にしていたのだとか。
その変わり者の百姓とは、私の母方の祖父でありましたとさ。
戦後の翌年、三女として母は生まれました。
▲洋室に佇む幼い頃の母 ▲広大な外界
初等部の頃、ご学友と駄菓子屋に行くとき、ご学友のお小遣いは5円ほどだったそうですが、母はその倍の10円も貰っていたらしく、近所の貧しい友達の分のお菓子を奢っていたそうです。
また、子供の頃に『アタックNo.1』などの少女漫画も多少は読んだこともあるようですが、おてんば娘だった母上はそれほど漫画に熱中せず、男の子に混じって駆けっこや木登りで遊んでいたとのことです。
学業を終えた母は、まず親の経営する喫茶店でウエイトレスになりました。今では考えられませんが、最初は客に挨拶するのさえ恥ずかしく、店長に怒られて泣いたそうな。それから兵庫県南西部の実家から南東部の神戸市に引越し、富士通の子会社に就職しました。母がコンデンサーの種類を一応は見分けられる人種だと知るまで少し時間を要しました。
そうして一人暮らしを続け、30代後半の頃に同僚の紹介で父と出逢い結婚しました。
▲祖母と母
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◆1987年:初代ゆとり世代・次男として神戸に生誕
予定日より1ヶ月以上早い出産。低体重児。保育器・粉ミルク育ち
出産時にチアノーゼ=仮死状態ですぐ産声を上げず九死に一生を得る
◆1988年:歩き方を覚える前にダンスを習得。音楽鑑賞が趣味の父が洋画『サタデーナイトフィーバー』のサントラや、ハードロックバンドのディープパープル等の洋楽レコードを20万円相当のステレオ機器(バブル時代は20万円以上のオーディオ機器を持つのは広く一般的だったそうな)で流すと、家具に片手をつきながら腰を振って踊っていたとのこと。記憶にないのだけども…
▲洋画『サタデーナイトフィーバー』のサントラ
 ▲筆者と父
◆1990年(3歳):捨て犬を拾い飼う

◆1993年(6歳):誕生日に発売された『聖剣伝説2』のOP曲を聴いて音楽に感動
◆1994年:兄の誕生日に発売された『FF6』の戦闘BGMに感銘を受ける
◆1995年:国語教科書をワープロで写し印刷したプリントを担任に渡し褒められる
・父が会社で不要になったブラウン管Windows 95を家に持ち帰る
・幼馴染から金魚2匹をもらい飼育。繁殖に興味を持つ
・兄の作ったタイピングゲームでタッチタイピングを習得
▲10,000人中718位『寿司打』
◆1996年:東京の親戚宅に単身で数週間ほど居候

▲東京セサミプレイスに東京の従姉と!
◆1997年:初代ミニチュア・ダックスフントの飼育開始

◆1998年(11歳):『ゼルダの伝説 時のオカリナ』を攻略
◆1999年(12歳):犬のブリーダー業に挑戦。産まれた仔犬を売り14万円の初収入
▲ミニチュア・ダックスフント四姉妹誕生!
◆2000年(13歳):ネットとケーブルTV開通。同人サイトや攻略サイトのBBS等で交流。webサイト作成が流行り、HTMLでホームページを作成。お絵描きBBSやチャット、MSNメッセンジャー等で毎日フレンドと交流。アニメ専門チャンネルでOVAを視聴し、音楽専門チャンネルで洋楽ヒットチャートや邦楽インディーロックを拝聴。また、ゲーム音楽の耳コピMIDIに感銘を受け、楽譜の読み方、音楽理論を学習し、MIDIシーケンサーによる作曲を開始。初めて楽譜を読みMIDIシーケンサーに入力した曲は『ゼルダの伝説 時のオカリナ』のゼルダのテーマ。当初は「兄の作るゲームのBGMを作成したい」という思いつき程度のものでした。
◆2001年:「楽器が弾けると作曲が捗る」という情報をもとに、押し入れに眠っていた父のギターを弾き始める。当時の音源ではピアノやドラムは打ち込みでリアルな再現が可能でも、エレキギターは打ち込みだと不自然になるので生演奏が必要だと判断
『FF10』のラスボス戦曲がヘヴィーメタルというジャンルだと知り、食わず嫌いだったことを恥じる。それからメタリカやブルーハーツを教材に毎日ギターの猛練習に励む
◆2003年(15歳):兄が大学進学に伴い実家を出て隣の府に引越す └プログラムを組める唯一のリアル知人を失い意気消沈
◆2004年:父の運転する2tトラックに同乗し築地市場に赴く
 △2tトラック運転手のイメージ図
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◆2005年(18歳):幼馴染の祖父が経営する零細企業にて勤続開始
◆2007年3月4日(19歳):「ブログ執筆の何が面白いのだろう」と疑問に思いながら、仕事の合間にRPGツクール用BGM素材配布ブログ『レオナル堂』開設
◆13歳~19歳までに作曲したBGM(midi形式ファイル)を配布し、翌月BGMを提供したRPGツクール作品がエンターブレイン主催の公式コンテストに入賞
◆2007年10月(20歳):神戸ケミカルシューズ関連業に就職
・仕事に専念するため、翌年4月1日を以て『レオナル堂』閉鎖
◆2009年:「合成音声技術の何がいいのだろう」と疑念に思いながら某国産動画共有サイトに処女作を投稿
◆2012年(24歳):応募曲『君の住む街へ』が第一回ピアプロ企画×赤い羽根共同募金キャンペーンソング2012に採用
・同年、障害者保健福祉手帳を交付され、以降は障害者雇用にて勤続開始
障害者雇用率制度
民間企業、特殊法人、国及び地方公共団体は、従業員に占める障害者の割合を法定雇用率以上に満たす義務があります。(障害者雇用促進法43条第1項)
民間企業の障害者法定雇用率は2.5%。事業主は従業員40人につき1人以上の障害者を雇用する必要があります。また、従業員数100人以上かつ法定雇用障害者数の不足分1人につき、月額5万円の障害者雇用納付金を国に納付する義務が生じます。放送局や銀行などの従業員が多い企業ほど、障害者雇用に対し積極的に取り組む傾向がみられます。令和8年7月より民間企業の法定雇用率は2.7%に引き上げられます。
◆2019年📺放送局へBGMを提供
東北地方や中国地方などのローカル情報番組で末永く放映されたそうな。
めでたし、めでたし!
仕事でwebデザインや社内チャットで業務連絡するようになり、
子供の頃に培ったwebスキルが役立つのは感慨深いものがあります。
𓈒 𓏸𓈒 𓂃𝒯𝒽𝒶𝓃𝓀 𝓎ℴ𝓊𓂃 𓈒𓏸

以上、学業や仕事の合間の息抜きとして音楽を嗜んでおりました。
(๑・ิω・ิ)🍵自分自身よりも"めんこい孫娘"の活躍を祈る好々爺!
※当ホームページは個人サイトであり法人ではありません
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