※本稿は虚構《フィクション》であり、実在する人物・団体との関与は一切ありません。

ほにゃぽけ日記『一寸先は旅』

『快晴』8月11日, 2015年

 日常をブログに書き出すと自惚れや誇大が生じるのであまり好ましくないと常々考えていましたので、しばらく日記の更新を中断したいと思います。自分語りか或いは著名人の話だけしか書けないなら、控えた方が良いかなと思い至った次第であります。

 それが己と異なる意見でも、そのような考えもあるのだな程度にしか受け取れずに記載できた話も多々あります。
 いずれにしても見識が足りず、賛同や反対ではなく中庸であるとしか書きようがありません。
 とにもかくにも面白い話が書けないで誠に申し訳ありませんでした。


 皆様の大空が末永く快晴でありますように。

◇◆◇ おみくじ ◇◆◇

 約1,800年前に創祀された神功皇后と由縁のある霊験あらたかな近所の神社に設置された無人販売のおみくじ(一枚200円)を数週間に一度の配分で引いたところ、立て続けに大吉のおみくじを引き当てました。箱に入っているおみくじ全部が大吉ではないかと訝しく思ったりもしましたが、確かめる術はないので猜疑心を捨て、ありがたく神託を畏み授かり仕ります。

 大吉を連続で引いた心当たりは『天津祝詞』を三日かけて丸暗記した上で、参拝の際に暗唱するようになったことでしょうか。いつか『大祓詞』も覚えたいと思う所存です。

 流石は八百万の神々……SNSを利用すれば全世界の日本語話者に向けて神託を発信できることをしっかりと理解しておられる!

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▼第三番 『生』 《運勢大吉》
「生きるとは一人の作業である。どんな境遇にあろうとも揺るがない自分だけの生き方を見つけなさい。効率よくやろうと思わず己の心と真剣に向き合い、たった一度の人生を力強く生き抜きなさい」 


▼第四十七番 『道』 《運勢大吉》
「我が道を進みなさい。理想を忘れず必死に夢を追い求めなさい。道とは思い立ったその日から目の前に広がるありとあらゆる可能性のことである」 


▼第三十七番 『信』 《運勢大吉》
「人生をより良くしようと思うなら、どんなことがあろうとも約束を守ることだ。それがどんな些細な約束でも。信義を重んじることは、あなた自身の価値も上げる」 


▼第三十一番『伸』《大吉》(2022年)
「いつ咲くか、いつ咲くかと見上げてばかりいませんか。美しい花を咲かせるには土台が必要です。今のあなたに必要なのはしっかり大きく伸びる根っこ。まずは下に伸びる根を育てることから始めよう」


▼第四十一番 《運勢大吉》
「さびしさに 何とはなくて来て見れば うれし桜の花ざかりかな」
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 おみくじ第四十一番に書かれた和歌の意味合いは、「寂しさから偶然にも訪れた場所で、満開の桜を見れて心嬉しく思うに至った」という内容とのことです。

 偶然そのタイミングで立ち寄ったからこそ出逢える景色もあるのでしょう。

 桜の花のようにかならず散る運命だと理解した上でも、人生は決して無為ではないと私は確信しております。

 一説によると神社の構造は母胎を模しているそうです。鎮守の杜は陰毛、鳥居は女性器、参道は産道、お宮(本殿)は子宮という具合になります。
 そう聞くと、安産祈願で参拝しても別段問題ないように思いますが、「末代まで繁栄が続きますように」と神社参拝するのは道理に適っているとして、興味本位で私利私欲を願っても、ただの慇懃無礼に当たるのではないのかと考えられます。それでも初詣に足を運ぶ人は後を絶えません。日本神話は疎か、その神社の祭神さえ識らずに、こちらの要求を一方的に願うのは無学にも程があるのかもしれませんので、それならば私は大人しく家でお雑煮を食べながら自粛して居たい次第であります。

 子供の欲しがる物をあれこれ買い与えたり、願い事を叶えたくなるのが親心ですが、いくら欲しいとお願いされても、なんでもかんでも与えてはかえって本人の為にならない物事もあります。

 私がもし親の立場であるなら、それを願う本人の成長を促すものや、周囲の為になるものだった場合は、喜んで与えたいと思うのかも知れません。

『明治神宮』4月30日, 2023年

 明治神宮にて「狐の嫁入り」をほうふつとさせる挙式の真っ最中でした。撮影OKなようなので掲載。帰宅後に写真を確認したら、偶然にも左門の奥に行列と赤い傘が写っておりました。

◆明治神宮おみくじ第一番
「目に見えぬ神にむかひてはぢざるは 人の心のまことなりけり」

 目に見える現実的な相手が目前に居れば、相手に応じて対応することが出来ます。目には見えない神に向かい恥ずかしくない自分を持ち続けるのは、その人の「誠」以外にありません。誰が見ていなくても、神は見ておられます。その神に恥じない自分を常に維持し続けるためには「誠」以外にありません。常にどこであってもいつでも、人の道として大切なことは「誠」の心である旨を強調された明治天皇御製の御神籤であります。

 これからもイエス・キリスト様や大日如来様の教えに日々感謝しながら、豊受姫様の恩恵を受け賜り邁進してまいりたい所存であります。

『新年会』1月某日, 2020年

 2020年に執り行われた職場の新年会にて。

 この串カツ屋はコロナの影響か、閉店してしまったようだ。

 みんな思い出になってしまうのは少し寂しいな。

 ビールはジョッキ2杯まで。

 乾杯!

『懇親会』夏季, 2019年

 2019年夏季。知人と懇親会!

 途中で飲み会に参加するため、店に来ようとした者からの「入り組んだ道で迷った」という連絡に「日出処が東、日没する処が西」とアバウトに答えたらぶじに到着していただけました。
 内心それでよく分かったなと感心いたしました。

 大学准教授の主宰に案内された二次会の会場はお洒落なバーでした。

 この日の出来事は「ノヒトさんは肉にも目をくれず、ひたすら茄子を食べていた」と、後世の会合まで末永く語り継がれたようです。

『昔語ル猫ノ唄』1月5日, 2019年


■2005年~2007年の勤め先(2021年現在)

 唐突に過去を振り返りますと、作曲を開始したのは2000年(13歳)からですが、音楽素材ブログの『レオナル堂』を公開したのは2007年3月~2008年4月頃までの僅かな期間でした。その間に就職して仕事を優先するために閉鎖しましたが、今思えば残して置けば良かったと猛烈に後悔中であります。

 元々作曲を始めた中学生の頃はゲームのBGMを作りたいという目標がありましたが、筆者のゲーム離れも相まってうやむやになってしまいました。しかしながら音楽素材ブログを立ち上げたことで、BGMを提供したいという子供の頃の夢を叶えることが出来ました。利用していただいた皆様には感謝の念を禁じえません。本当にありがとうございました。

 ちなみに2000~2007年春(13~19歳)までに作成したmidiファイルを調整してアップロードするだけだったので連日のように新曲をアップロードしておりましたが、一曲を仕上げるのに大体一週間ほど掛かるので、決して制作は迅速な方ではありませんでした。

「音楽で人に良く思われたいとか、音楽を積極的に人に聴かせたいとは、もう考えが及んでおりませんが、音楽の楽しさを人生から除外したくありません」という内容の文面をネットで拝読して妙に納得した今日この頃です。

『島根観光』11月23日, 2018年


 今回こそは家族との最後の旅行になるだろうということで島根県まで赴きました。
 左の写真はスサノオが祭神の八重垣神社。右は国津神の代表格オオクニヌシが祭られる出雲大社の神楽殿です。
 神楽殿では神主による祝詞の奏上と、巫女による舞の奉納を拝見しました。

2018年4月21日 - 伏見稲荷大社



 本日は京都の伏見稲荷大社に足を運びました。天気予報では真夏日になるとのことだったので気温の上昇する正午前に帰宅しましたが、気が向いたら今度は稲荷山を登りたい所存です。

 写真でも分かる通り、本殿が朝日と反対の西向きなのが気になります。神社は陽光の当たる南か東向きに建てられるのが通常ですが、京都の神社ではなぜか伏見稲荷大社だけが西向きのようです。諸説ありますが、西向きは黄泉の国の方角にあたります。西向きの神社と言えば京都より遠く離れた出雲大社の本殿も西向きとのことです。見識が足りず両社ともに祭神が国津神という共通項しか見当たりませんが、真意のほどは如何なものでしょうか?

 出雲神話では根の堅州国(黄泉の国)は神々の故郷でもあるとされ、そこから穀物や富などあらゆるものが生じるとされます。つまり黄泉の国は出雲と極めて関係が深く、出雲神話の祖神スサノオがその郷里に帰りたいと発言したのは極めて自然と言えるそうです。伏見稲荷大社や出雲大社が西側を向いてるのもそれらに何かしらの影響を受けたのかも知れません。

 イザナギから生まれた三貴子の中でスサノオだけは異質の存在だったのもあり、古くから天皇家に対抗し得るほどの勢力を誇った出雲の王朝を支配下に治めるために動員されたと見ることができます。天皇家の正統を主張するために作られた『記紀』の神話では、地方豪族の中でも著しい勢力を誇った出雲一族の祖神の出自をイザナミの子ということにしました。高天原に馴染まないスサノオを追放した上で改めて出雲の祖神としたのです。

 結局のところ『記紀』では出雲も大和朝廷の手中に治められることになります。大和朝廷の正統性をいかに合理的に説明するか、作者の聖徳太子や蘇我馬子たちの苦心のほどがうかがえます。

『広島観光』4月2日, 2017年



 年老いた親の付き添いで広島の厳島(宮島)まで赴きました。
 特に好きでもない旅行にわざわざ同行し始めたのは、思い出を少しでも残しておきたいと考えてのことでしたが、40歳年上の母の膝関節の状態も芳しくないので当分の間は旅行も控えるでしょう。

『福井観光』7月11日, 2016年



■モンハンの鉱物を彷彿とさせる展示物


■身投げの名所“東尋坊”(とうじんぼう)


■“夫婦杉”(めおとすぎ)。これは別れたくても別れられないッ!

『姫路城』7月13日, 2015年


 筆者と東京の伯母夫婦、アメリカより来日中の従姉の子供らで世界文化遺産の姫路城に赴きました。
 従姉の子供たちとは10年ぶりの再会になります。
 光陰矢の如し、時の流れの早さを身に沁みて感じましたとさ。

『奈良観光』6月1日, 2015年


 うまい具合に一頭もこちらを向いてくれませんでした。

2015年4月2日 - 井の蛙、天を仰ぐこと能わず


 勤務先の調理場ではコックコートではなくエプロンを着用していますが、少し困った事態が往々にして発生します。
 それは食材の買い出しの際、ご婦人方にスーパーの店員と頻繁に間違えられることに他なりません。
 お目当ての商品がどこに置いてあるのかという問いかけに、毎度のように「店員ではありません」と返答しなければならないのは非常に面倒であります。
 なので、いっそのことスーパーのどこに何があるか把握して、懇切丁寧に教えたいと思う今日この頃です。

『生き残ったのは俺たちだけらしい』4月1日, 2015年


 過去は過ぎ去りもうない。未来は来たらずまだない。
 ならば精一杯、今この瞬間を生きるんだ。

『神戸ハーバーランド』3月29日, 2015年


 聳え立つ神戸ポートタワー。

『財布こま』3月20日, 2015年


 職場のチーフからの頂き物です。
 物事が上手く回るように願掛けされたものらしいのですが、実際にこれを財布に入れると穴が開くとのこと。
 あなおそろしや。

『汝、己の手を穢すべからず』3月18日, 2015年


『懇親会』12月28日, 2014年

 本日はスタジオセッション仲間だったベースボーカルの青年(20代)と女性ドラマー(40代)の間で執り行われた懇親会に招かれました。

 以前ドラム担当だった上海から来た留学生Y君はカプコンに就職したようです。

 趣味でR&B系のベース演奏を嗜む三菱重工の社員さんとセッションしたこともありましたが、Y君と一緒に演奏したら面白い化学反応があったのではと考えたりする次第です。

 楽しい時間は経つのが早い。
 そんな愉快な一日となりました。

『レタスの収穫』12月22日, 2014年



 職場に設置された水耕栽培器で育てたレタスの収穫を執り行いました。
 率直な感想を言うと業務スーパーで購入した方が早いと思うのですが、水耕栽培器を使用することで従業員が一丸となって小さな命を育てる優しい心が育まれたのではないでしょうか。

『君と歩いた道』10月21日, 2014年



 本日飼犬のカナが静かに息を引き取りました。
 晩年は癌との闘病生活になりましたが、痛みに耐えてよく頑張ってくれました。


✽.。.:*·゚ ✽.。.:*·゚ ✽

 幾度となく飼い犬との意思疎通を試みたが、7割くらいは理解に及ばなかった。

 犬は純粋無垢な心でどこまでも飼い主を信頼するから飼うのは荷が重い。

 時々「俺はお前が思ってるほど善い奴じゃないんだよ」と言いたくなるが伝えようがない。

 でも僕はお前の飼い主になれて嬉しかったよ。

 僕は君の飼い主になれて幸せだったけど、君は幸せだったのだろうか。
 少しでも君を幸せに出来たのならいいのだけど。

 今となって言えるのは「生まれて来てくれてありがとう」ということくらいだ。

 もう二度と生き物を飼うことはないだろうけど、思い出をありがとうな!

 どうか安らかに。親愛なるカナ。

『記録に残らない記憶』10月17日, 2014年


 どうぶつの森でフレンドと親睦を深めました。
 ちょっとしたハーレム状態に恐縮しきりの村長でしたとさ。

 私以外の3名の内2名は姉妹で、当初は姉とフレンドになり遊んでいましたが「妹もまぜてやってくれ」と頼まれて妹さんも参加。それも束の間、突然「ちょっと離席するからその間、妹を頼む!」と一任されて妹さんのお相手をさせていただくことになりました。

 他人の村で走り回って花を散らす天真爛漫な姉と比較して、しっかりとした礼儀正しい妹さんでありました。

 戻って来た姉に「どうだうちの妹は。いい子じゃろ?」と聞かれましたが、同意せざるを得ませんでした。


 楳図かずお氏を彷彿とさせるマリンスーツをいただきました。


 この直後に通信エラーが起きて昆虫採集のデータは飛んでしまいましたが、大切な思い出までは決して消えません。

【世界を縛るゼルダの伝説】-時のオカリナ3D- 実況プレイ|YouTube
 11歳の頃、週刊ファミ通で知った『ゼルダの伝説 時のオカリナ』を衝動買いして大いにハマりました。後にゲームキューブ移植版で追加されたハードモードを一切の攻略情報を参考にせず攻略しようとしましたが、後半の難所「闇の神殿」の一箇所だけ仕掛けの解除方法を発見できずに、やむを得なくネットで攻略方法を確認したのが今にしては悔やまれます。

▽『ゼルダの伝説 時のオカリナ』あらすじ

 ハイラル王国に広がる深き森には“コキリ族”という子供のまま永遠に年を取らない代わりに、森から出ると死んでしまう種族が住んでいた。

 主人公の“リンク”はコキリ族として育ったが、ある日に森の守護神デクの樹よりハイラルの危機と、これからハイラル城に向かい、そこでハイラルの運命を左右する神に選ばれし姫に出会うことを告げられる。

 斯くして、時さえも越える冒険の旅は始まった。

 幼馴染の少女“サリア”は、リンクを大切な友達と思う一方で、自分とリンクがどこか違っており、やがて別れの時がやってくることを察知していたようだ。

 森の住民にさとられないように森を後にしようとしたリンクだったが、出口の手前にある吊り橋の上でサリアが待ち伏せていた。そこでリンクは声を掛けれ、オカリナを手渡された。

「オカリナを吹いて、思い出したら帰って来てね」

 故郷を離れたリンクが初めて訪れたハイラル城下町で出会う少女の“マロン”は、ハイラル平原の中央に位置する牧場の一人娘だ。

 父親と牧場を切り盛りしており、亡き母に代わって少々だらしがない父親を支えるしっかり者だが、いつか白馬に乗った王子様が迎えに来てくれると思っていたり、密かに夢見がちなところもある。

 歌が大好きで、仔馬の“エポナ”を可愛がりながら、幼い頃に母から教わった唄をよく歌っている。

Zelda: Ocarina of Time Medley (Lon Lon Ranch, Market, Horse Race) | YouTube

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 幼馴染や救出した各国の姫君の心をわりと射止めるような気がしないでもないわりに、自分の功績を誰に告げて自慢するわけでもなく、颯爽と愛馬エポナに跨り駆け去る主人公のリンクは、僕にとって永遠の憧れであり、英雄であり続けるのでしょう。

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「正しいことってどんなこと? 正しいことをすると……みんな喜ぶのかな」

「君の友達ってどんな人? その友達は君のことを友達と思っているのかな」

「君の幸せってどんなこと? 君の幸せはみんなも幸せになるのかな」

「君の本当の顔はどんな顔? お面の下の顔が本当の顔なのかな」

「誰もいなくなったな、鬼ごっこ。そうだ鬼ごっこがいい。鬼は逃げるだけだ。いいな」

(『ゼルダの伝説 ムジュラの仮面』任天堂, 2000年)

『東京観光』2月4日, 2012年



 大都市東京に行くの巻。

「龍は一寸にして昇天の気あり」
 この諺は、龍の子供は僅か一寸ほどの大きさの時から天に昇ろうとする気概があることを言い表しています。

 さらば大都市“東京”よ。
 願わくば、また会おう。

『一家団欒』8月17日, 2011年


 盆休みに隣りの府で会社員(SE)として勤める兄が実家に帰省しました。
 写真に写っているのは飼い犬のカナと兄の足の裏。

 不愛想な兄ですが、晩年に重い病気を患ったカナの手術費用20万円を負担してくれた優しい一面もあります。ペットは国の医療費7割負担もないので、人の手術よりも費用が高額になることが多いようです。やはり半端な気持ちでペットを飼ってはいけないと思うしだいであります。



 ちなみにWikipediaによるとシステムエンジニアとは日本のIT業界における特殊な体制から生じた和製英語で、国際的にはソフトウェアエンジニア、ソフトウェア開発者、プログラマー、ハードウェア技術者などの表記が正しいとのことです。

『須磨海水浴場』8月31日, 2011年



『静岡観光』2月26日, 2010年




『鳥取観光』9月14, 2008年


 当写真は鳥取砂丘にて撮影されました。

 後日、同僚にお土産の「砂卵」を配ったところ、「一人で歩いて行ったんか?」と不審がられました。
 皆様も鳥取砂丘に行った際は「砂卵」を是非ともいかがでしょうか。

『SUMMER SONIC 08』8月10, 2008年

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メソポタミア文明

 人類最古の文明とされる古代メソポタミア文明は紀元前4,000年頃に誕生しました。重要都市はイラク南部の都市ウルク。暦は太陰太陽暦が使用され、紀元前3,000年紀に太陰太陽暦では1年が約11日短くなることが判明し、調整のために閏月が採用されました。六十進法は、メソポタミアで生まれ、現在も時間の単位に用いられます。一週間を七日間としたのはシュメール時代からで、暦とともに占星術(後の天文学)も発達し、「カルデア人の智恵」と呼ばれました。

 紀元前8,000年紀から西アジア一帯で簿記のための印として使われたトークンと呼ばれる道具が印章に変化し、さらに手で書いて絵文字化することで、紀元前3,200年頃にウルク市において最古の文字とされるウルク古拙文字が誕生しました。

 このウルク古拙文字は、黄河文明の漢字や古代エジプトの壁画文字と同じく象形文字ですが、紀元前2,500年頃にこれを発展させた楔形文字が誕生。周辺諸民族も楔形文字を表音文字として借用し、紀元後1世紀頃まで西アジア諸国の言語を表すのに利用されました。初期メソポタミアでは、南部のシュメール人たちは言語系統不明のシュメール語を使用し、北部のアッカド人はセム語族のアッカド語を使用していました。

『メソポタミア神話』

 ギルガメッシュは、古代メソポタミア文明シュメール初期王朝時代(紀元前2,600年頃)の王。多くの物語から構成される『メソポタミア神話』の中でも、とりわけ有名な英雄譚『ギルガメシュ叙事詩』の主人公として描かれました。

「全てのものを国の果てまで見通した」「全てを味わい全てを知った」「知恵を極めた」「深淵を覗き見た人」といった表現が文中でなされています。ウルク第一王朝の王ルガルバンダを父に、女神リマト・ニンスンを母に持ち、シュメールの最高神アヌ、主神エンリル、水と知恵の神エア(エンキ)から知恵を授かりました。その体は3分の2が神、3分の1が人間の半神半人。ギルガメッシュ王の時代より、神代から人間が主権を握る時代へ移り変わったとされます。そのギルガメッシュ王にとっての唯一無二の親友がエルキドゥです。ギルガメッシュ王が若かりし頃は、暴君として民を悩ませていました。そうして救いを求める民の声に応え、神が王を戒めるために遣わせたのがエルキドゥでした。

 人の子に神の力を注がれたギルガメッシュと違い、エルキドゥは創造の女神アルルが粘土から生み出した存在。エルキドゥという名は、知恵の神エンキに由来しています。当初のエルキドゥは造られた命であり、人間らしい感情を持ち合わせていませんでした。生まれたばかりのエルキドゥは、人の感情や知性を持たない野獣的な性質で、姿形も全身に毛の生えた動物のようなものだったようです。始めの頃は荒野や森で動物たちと共に寝起きする獣のような生活を送りながら、そこで動物たちを狩人から守っていたために、エルキドゥの噂はやがてギルガメッシュ王にまで届き、彼の存在に関心を寄せるようになりました。そこで王がエルキドゥのもとに向かわせたのが神聖娼婦のシャムハトという女性でした。古代においては、人間の理性を妨げる欲求を解消する娼婦の役割は重要視され、神職としての娼婦という職もありました。彼女もまたその一人でした。

 シャムハトはエルキドゥと共に過ごし、彼を慰めるのと同時に人間として必要な知識や振舞い方を教えました。二人が7日7晩を共に過ごした頃には、エルキドゥは見違えるほどに人間らしさを備えるようになりました。彼の外見は中性的な容姿ですが、これは恩人であるシャムハトの姿。粘土から生み出された性質から持つ変容の力で、彼女に似せた姿を取っているとされています。シャムハトはエルキドゥと過ごす中で、ギルガメッシュ王のことを彼に教え、エルキドゥも王に興味を惹かれていきます。

 相手を強く勇敢な戦士と聞き及んでいた二人は、出会う前から互いに良き仲間になれるだろうという予感を抱き、出会いを心待ちにします。そしてエルキドゥの教育が終わる頃に、ギルガメッシュ王は彼を迎えるための宴を開くことにしました。シャムハトに導かれてエルキドゥは、初めてギルガメッシュの治める都市国家ウルクの地を踏み、王との出会いを果たします。しかし、実際対面した王の第一印象は最悪のものでした。その暴君ぶりまでは聞かされていなかったエルキドゥは、自由気ままに権力をふるうギルガメッシュの姿に憤慨するあまり、その場で戦いとなってしまいます。神の祝福を受けた王ギルガメッシュと、神の力を注がれて造られたエルキドゥ。人外の力を持つ二人による凄まじい戦いが繰り広げられましたが、両者の力は拮抗しており、結局決着はつきませんでした。

 誰も自分に敵うものはいないと思っていたギルガメッシュは、初めて自分と対等に渡り合えるエルキドゥを立派な戦士と讃え、エルキドゥもまた王の強さを認めました。全力をかけた戦いの末、二人の間には互いを認め合う深い友情が生まれたのです。


■『Fate/Grand Order』ギルガメッシュ&エルキドゥ


『メソポタミア神話』に登場する女神イシュタルは、太陽神シャマシュの妹で、愛と美の女神とされます。世界の秩序を定める神エアは、それぞれの神に役割を与えましたが、イシュタルには何も与えませんでした。イシュタルは泣いてエアに懇願し、「女性としての美しさ」「滅亡させなくてもいいものを滅亡させる力」「創造しなくていいものを創造する力」を与えられました。これらの神性によりイシュタルは気まぐれで移り気のはげしい自由奔放な性格になりました。

 イシュタルは欲しいものを手に入れるために手段を選ばず、馬を長距離走らせ泥水を飲ませたり、子供を生贄にする残忍な資質もありました。また、性愛の神でもあるイシュタルは、夫がいながら120人の愛人がおり、途切れることなく交代に愛人たちと性交渉を繰り広げることもありました。さらに自身と関係を断った男には酷い仕打ちを繰り返しました。

 イシュタルは、ギルガメッシュにも惚れて求婚します。そうして多くの贈呈品を送りましたが、イシュタルと関係を持った男たちが悲運な最期を迎えると知っていたギルガメッシュはその誘いを断りました。それが原因になり、イシュタルはギルガメッシュに対して復讐を決行した話もあります。


 エレシュキガルは冥界の女神。前述のイシュタルの姉。ある日、妹のイシュタルは思いつきでおめかしをして冥界に向かいましたが、事前に姉のエレシュキガルは冥界の前に七つの門を用意していました。イシュタルは通行の許可を得るために服を脱ぐ必要があると聞き、少しずつ服を脱ぎ捨てながら進み、七つの門を通過した頃には全裸になりました。イシュタルは姉のエレシュキガルと非常に仲が悪く、そのまま怒りを買って一時的に冥界に幽閉されました。


 ちなみにイシュタルに力を与えた神エア(エンキ)は『メソポタミア神話』に伝わる水・知恵・生命・魔術などを司る神。また、『バビロニア神話』では都市エリドゥの守護神。1964年にイタリアの考古学者チームが紀元前3千年紀の都市エブラの一連の発掘調査を行い、大量の文書資料を発掘。さらにフランスの歴史学者により、エブラ人が『カナン神話』の主神エールの名を「イア(Ia)」に置き換えて呼ぶ傾向が発見されました。語尾の「イア("Ia")」は「エア("Ea")」=アッカド語のエンキを西セム語的に発音したもの。セム語族の衰退とともに神イアフ("Iahu")も消えましたが、これは後に『旧約聖書』の唯一神「ヤハウェ」となった可能性が指摘されました。

ゴッドとアッラー

 アラビア語の「アッラー」とは、英語の「ゴッド」に該当し、どちらも《ユダヤ教》『旧約聖書』の唯一神ヤハウェのことを指します。つまり《イスラム教》と《キリスト教》の信仰する神は同一なのです。

 ではなぜ《イスラム教》と《キリスト教》が対立したのかというと、『旧約聖書』に記された「いつの日か人類を導くために現れる救世主・預言者」が《キリスト教》の教祖イエス・キリストか、はたまたキリスト没600年後に現れた《イスラム教》の教祖ムハンマドかで意見がわかれることに起因します。

 イスラエルにある都市エルサレムは、上記の唯一神を信仰する《ユダヤ教》《キリスト教》《イスラム教》の聖地です。過去にこの聖地エルサレムを巡り、3つの宗派による戦が何度も繰り広げられました。

『新約聖書』におけるルシファーとは、「明けの明星」を指すラテン語であり、「光を掲げる者」という意味をもつ悪魔・堕天使の名。《キリスト教》特に西方教会カトリック教やプロテスタントにおいて堕天使の長"サタン"の別名であり、魔王サタンの堕落前の天使としての呼称。人類の祖先アダムとイヴを、蛇の姿をかりて騙した張本人でもあり、人間を創造したともされます。サタンの由来は、ヘブライ語の「satan」で、これは「敵対者」「反対」を意味し、アラビア圏では「シャイターン(悪魔)」と呼ばれています。

 西洋でサタンは高位の悪魔の名称とされることもありますが、元々ルシファーは最高位の天使で、神に次ぐ二番目の存在だったとされます。神から最も愛された天使であり、唯一神の玉座の左側にいることが許されていました。しかし、ルシファーは神の座を欲し、自身のカリスマ性を利用して、賛同する天使達を集めてクーデター(謀叛)を企てます。そうしてルシファーの率いる反乱軍と、神の率いる大天使ミカエル軍との戦いが始まりました。長期戦が続きましたが最終的にルシファーが敗北し、ルシファーと天使の三分の一は天から地獄に落とされ、ルシファーは悪魔の王・魔王サタンになったとされます。

《キリスト教グノーシス主義》では「世界の創造神は悪」と断じるので、それに歯向い人類に知恵を与えたサタンは救世主として扱われます。知恵の実がもたらす「知恵」とは「善悪の知恵」であるとされます。「何が正義で、何が悪かを自分で定める能力」と考えられます。

 ルシファーは『旧約聖書』にも登場する単語ですが、この時点では悪魔ではありません。上述の通り「光をもたらす者」の意で、聖書の「明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった」の「明けの明星」にあたる言葉です。

 この節はバビロニア王国(現イラク周辺)の王が倒れたことの比喩ですが、《キリスト教》と《ユダヤ教》にとってバビロニアは聖地エルサレムの神殿を破壊し、大量のユダヤ人を強制移住させた怨敵なので、自然と「ルシファー=バビロニア王=神に背く悪魔」という解釈がなされました。

 ちなみにイラクはアラビア語を公用語とするスンニ派アラブ人の住むイスラム教の国で、隣接するイランは白人の祖先シーア派のペルシャ人も住む中近東の国です。「アラビア語を公用語とするイスラム教徒の国」がアラブの定義なので、公用語がペルシア語のイランや、ヘブライ語のイスラエルは、精確にはアラブではなく中近東に区分されます。

《キリスト教》では、「神の真名(ヤハウェ)は口にするだけでも失礼にあたる」とされており、それゆえにゴッド(ゲルマン語のGott〈神〉に由来)と呼ばれます。一方の神道では「神の名を口にするのは、言霊的に考えても良いことなので、積極的に心で念じたり声に発すべき」とされます。

 古代日本と一神教では、プライバシーやデリカシー、及びハラスメントの考え方に大きな相違があるのでしょう。

『旧約聖書』

「降って止まない蛙」とは、『旧約聖書』出エジプト記8章2節モーゼの十災。奴隷としてイスラエル発祥のユダヤ人を迫害したエジプト王に、天罰として天からカエルを含めた十の災難を神が降らせたエピソードより。カエルは罪と贖いの象徴でもあります。

 まず始めにギリシア語で書かれたキリスト教『新約聖書』の前身となるユダヤ教『旧約聖書』はヘブライ語で書かれました。ユダヤ教徒は園児ほどの年齢から聖書で読み書きを覚えていたのだとか。一方の日本は、江戸時代まで人口の5%だけしかいなかった公家などの神道における上層部しか読み書きを教わる機会がありませんでした。

 イラクはアラビア語を公用語とするスンニ派アラブ人の住むイスラム教の国で、イランは白人の祖先シーア派のペルシャ人も住む中近東の国です。「アラビア語を公用語とするイスラム教徒の国」がアラブの定義なので、公用語がペルシア語のイランや、ヘブライ語のイスラエルは、精確にはアラブではなく中近東に区分されます。

《隠れキリシタン》

 隠れキリシタンとは、長崎において19世紀に禁教令が撤廃された後も、本来のカトリック教に復帰せず、独特の信仰形態を継承した人々のことです。学術的には禁教期に仏教徒に見せかけ、ひそかにキリスト教を信仰した人々を潜伏キリシタンと呼び、明治時代に禁教が解けた後も信仰を続けた人々が隠れキリシタンとされます。本来とは異なり、習俗にも影響された独自の信仰文化を形成し、その信仰は仏教や神道と同居していたようです。

 長崎市の市章は、陰陽師の安部晴明や《ユダヤ教》のシンボルとして馴染み深い五芒星です。これは長崎が江戸時代から貿易を開始した5つの港の内のひとつであることを表しています。

 平安時代の最先端科学だった《陰陽道》における五芒星は、陰陽師・安部晴明の紋。《陰陽道》の思想として、森羅万象は「陰」と「陽」の二気から生じ、木・火・土・金・水の五行から成り立つとされました。

「陰陽五行」は風水や東洋医学をはじめ、漢方・お灸・針・按摩や指圧などの手技療法・薬草茶などで病気を改善させる自然治癒を目的とした養成法にも用いられます。陰陽師は、その陰陽と五行の変化を観察し、災厄を予期して人間界の吉凶を占い、地相風水を判断し、天体観測・占星・暦の作成をおこなう人々であり、律令制における中務省陰陽寮の官職でした。

陰陽説

 この世の万物を陰と陽でとらえる陰陽説では、「太陽/月」「男/女」「奇数/偶数」「心/体」など対になるものが共存するとされます。そうしてこの陰陽のバランスを保つことが大事だと説かれています。


▲太極図

 陰と陽に優劣や善悪はありませんが、バランスが片方に偏るのは良くないとされます。

▽陰の気が強まりすぎると
・動きや発言が鈍り、心身ともに冷えて停滞
・優柔不断になり自分で物事を決められない
・依存体質になる
・消極的で言いたいことを言えない
・泣き上戸で落ち込みやすい
・心配症で会話や行動のスピードが遅い
・冷え性、低血圧、貧血気味、寝起きが悪い

▽陽の気が強まりすぎると
・頭に血がのぼり、イライラしがち
・頑固で自己中心的になる
・協調性がなく、和を乱しがち
・イライラしやすく暴力的
・快楽を追求
・口数が多く、早口になる
・心拍数が高い、高血圧、のぼせやすい

《儒教》では「中庸」のバランスが理想とされます。中庸は陰にも陽にも偏らない状態とされ、孔子の著書『論語』の中に「中庸の徳たるや、それ至れるかな」と書かれています。「考えが一つの立場に偏らず、過不足もなく、適当なバランスで行動できることは、最高の人徳である」という意味です。

『日本神話』では、女神アマテラスは太陽神(陽)で、その弟の月詠(ツクヨミ)は夜を統べる月神(陰)ですが、本来の陰陽思想に基づくと「太陽=陽=男」「月=陰=女」になります。これでは陰陽的に性別が反転していることになるので「実は天照大神は男神ではないのか」という説もありますが、太古は女性優位社会だった日本では最高神が女神でもふしぎではないのでしょう。

 ヨーロッパの神話では、最高神は男神・父神になりますが、『日本神話』の最高神は「父神の娘」か「父神の娘の旦那」になります。これを解りやすいように『サザエさん』で例えると、父"波平"ではなく、娘の"サザエさん"か、その旦那"マスオさん"が世帯主になることを意味します。

『北欧神話』

『北欧神話』主な登場神とアイテム
・オーディン - 主神、創造神の一柱で隻眼
・グングニル - 主神オーディンの持つ槍
・ヴァルキュリャ - 主神オーディンに仕える戦乙女
・フレイ - 豊穣の神、数多い豊穣神の中で最も重要
・ロキ - 奸計・悪意の神、オーディンの義兄弟
・フェンリル - ロキの息子の巨大な狼

『北欧神話』の世界は、9つの世界が「世界樹ユグドラシル」により繋がる構造です。さらに3つの魔法の泉「ミーミルの泉」「ウルズの泉」「フヴェルゲルミル」に根を張りそこから水を汲み上げています。その一番下では「嘲笑する虐殺者」の黒竜ニーズヘッグがユグドラシルの3番目の根を齧っています。

▼第1層
⑴ アース神族の世界「アースガルド」
⑵ ヴァン神族の世界「ヴァナヘイム」
⑶ エルフの世界「アルフヘイム」

▼第2層
⑴ ドワーフや小人の世界「ニダヴェリール」
⑵ 黒エルフの世界「スヴァルトアルフヘイム」
⑶ 人間たちの世界「ミッドガルド」
⑷ 巨人の世界「ヨトゥンヘイム」

▼第3層
⑴ 炎の巨人スルトの住む灼熱の世界「ムスペルヘイム」
⑵ 氷の巨人たちの世界「ニヴルヘイム(ヘルヘイム)」

『北欧神話』では、世界の終末が巫女の予言という形で書き記されています。フィンブルの冬と呼ばれる厳しい冬が訪れ、夏がなくなり3度の冬季が続き、人心は荒廃して各地で戦乱が頻発します。さらに光の神バルドルの死を契機に、神族と巨人族の間で最終戦争ラグナロクが勃発します。ドイツや英国にあった『ゲルマン神話』の多くは、民話などに残滓を残すだけで文書化されることなく消滅しました。しかし北欧ではキリスト教化を受けながらも、9~12世紀に口承の詩という形で神話が保存されました。これが13世紀に詩集『サガ集』として書き起こされ、『北欧神話』の基礎となったのです。

『北欧神話』に登場するユグドラシルとは、世界を体現する世界樹のことです。アースガルズ、ミズガルズ、ヨトゥンヘイム、ヘルヘイムなどの「九つの世界」を内包する存在とされます。ロマン派歌劇の頂点ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指輪』の冒頭では、運命の女神ノルンがワルキューレの岩の上で「一人の神が泉にやって来て、永遠の叡智を得た代償に片方の目を差し出しました。世界樹トネリコの木から枝を一本折り、その枝から槍の柄を作りました――」と歌います。

 曜日のTuesdayは戦いの神テュールの日。Wednesdayは主神オーディンの日。Thursdayは雷(thunder)神トールの日。Fridayは愛と豊穣の女神フレイヤ(Freyja)の日。出典は『北欧神話』です。これらの『北欧神話』は、ノース人の信仰に基づく神話であり『ゲルマン神話』の一種。ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、アイスランド、及びフェロー諸島に伝わっていた神話の総称です。しかしながら『フィンランド神話』とは別の系統だとされます。



▲『ヴァルキリープロファイル(1999年)』~死の先を往く者たちに贈る福音書~

古代ギリシア時代

 古代ギリシャ時代は紀元前3,000年頃に興りました。これがヨーロッパ内で最も古い文明と考えられています。人種的にはインド=ヨーロッパ語族に属し、バルカン半島からギリシア本土に南下して、エーゲ海域や小アジアに進出した民族です。地中海各地に植民活動を行い、起源前8世紀からアテネなどのポリス民主政を発達させ、美術・文学・演劇・哲学・数学などの文化や学問を形成しました。

幾何学 - Wikipedia


▲直角二等辺三角形におけるピタゴラスの定理の適用

十二音律の算出

 紀元前6世紀――まだ五線譜や音階のなかった時代に、古代ギリシャの数学者ピタゴラスは、音程を示す器具のモノコードで音の研究を開始しました。

 研究過程でモノコードを半分の長さにすると、同じ響きのさらに高い音程になることをピタゴラスは発見しました。これが「1オクターブの発見」です。音程は周波数(1秒間で何回振動するか)で決定されます。これをHz(ヘルツ)と呼びます。A(ラ)=440Hzなら秒間440回振動する音。この回数が440Hzから2倍の880Hzになれば、1オクターブ高い音程になります。同じ要領で440Hzの1オクターブ下は220Hzになります。

 これで1オクターブの原理は解明されましたが、次に12音律を導き出した方法を解説します。ルート(根音)の2倍が1オクターブ上ということは、4倍は2オクターブ上の音程になります。さらにルートの3倍は、2倍と4倍の間の新たな音程が出現します。それを半分の周波数にして割り出されたのが、最も濁りの少ない和音となる「完全五度」です。

 次に他の音程を導き出します。まずルートを1、1オクターブ上を2、2オクターブ上を4として、3(完全五度)を半分にすると1.5になります。

A:E=(1:1.5)x2=2:3

新しい音の導き出し方
①3倍にする
②1≦f≦2になるまで2で割る

 1.5(E5)を3倍にすると4.5になり、それを2で割ると2.25になります。さらに2で割ると1.125が算出されます。これが長2度になりました。さらにこの計算を繰り返すことにより今で言うアイオニアン・スケールが大まかに算出されました。

 ピタゴラスは音同士の響きと相性にも気付きました。最初の計算から割り出された三つの音程で作れる〈ルートと五度の和音〉を「完全五度」と呼び、〈長2度と五度の和音〉を「完全四度」と呼びます。これが和音においてユニゾンの次点で濁りの少ない響きです。

 12音律においてルートから五度は+7の音になります。また、五度の+7は長2度です。これを繰り返し、順序を整列したのが五度圏です。

十二平均律

 現代の一般的な西洋音階における「十二平均律」とは、1オクターブ(周波数880Hz〈A4〉の2倍が1オクターブ上のA5〈1760Hz〉)を12等分にした音律。十二平均律では、1度(ユニゾン)と8度を除いて整数比率による純正な音程は得られない代わりに、ピタゴラス音律や中全音律で生じる誤差の大きな音程に妨げられることなく、全ての調で演奏が可能で、カラオケのように転調や移調が自由に行えます。

 弦楽器は弓で弾くことで真価を発揮できるのでしょう。

 東アジアで十二平均律が算出されたのは以外と早かったようです。明代後期の"朱載堉"(1536年 - 1611年)は、伝統的な十二律の求め方である三分損益法を否定し、1584年に『律学新説』の中で新しい方法「新法密率」を提唱しました。これが2の12乗根に基づく平均律の最初の算出例です。

ヨーロッパで平均律を2の12乗根に基づいて最初に算出したのは"シモン・ステヴィン"(1548年 - 1620年)です。彼は未完成の手稿(1605年頃)でオクターブを10000:5000として平均律を記述。彼の平均律の理論値からの誤差は±0.43セント未満で、後に"マラン・メルセンヌ"(1588年 - 1648年)が1636年にオクターヴを2000000:1000000として平均律を記述しました。

地動説

 中世ヨーロッパでは、地球を中心に天体が公転する「天動説」と、地球は平坦で端は滝という地球平面説が通説でしたが、古代ギリシャでは、すでに「地動説」と地球は球状という説が証明されていました。

 北極星の高さが緯度によって違うことから、地面が北極星に対して曲がっているということが発見されました。遠くからの光を平行と見なすと、確度が違うのは「地面が曲がっている」、つまり「地球は球体である」と言うことになるわけです。エラトステネスは、この理論に基づき、夏至の日に井戸の中まで太陽の光が届く都市アレクサンドリア南部(南中高度90度)のシエネと、それ以外で鉛直に立てた棒の影が作る角度が、これら2ヶ所の緯度の差によるものとみなし、緯度の差は7.2度=地球の周囲1/50であることを突き止めました。当時の単位が現代ではどのくらいの距離になるか正確には分かりませんが、彼が求めた地球の全周は一説には「46,250Km」となり、実際の地球より17%ほど大きな数字となりますが、当時としては異例の大体合ってる数値でした。

▼惑星の逆行
 古代ギリシャ時代から科学者を悩ましたのが惑星の逆行現象。「天体の動きは等速円運動」と信じられていましたが、惑星は稀に地球から見て逆に動くことが観測されました。これを解決するために「導円と周転円」という概念が導入されました。当時は楕円の式が発見されておらず、地動説より天動説の方が惑星の動きを精度よく予測できました。

▼年周視差
 年周視差とは、地球が動くなら1年のうちで恒星の見える角度が変わること。年周視差は目視では確認できず、望遠鏡の発明が必要でした。これが天動説の大きな「観測結果」になりました。年周視差が測定できるようになるのは19世紀になってからです。

▼ケプラーの法則
「天体の動きは等速円運動」と気付いた学者が16世紀のドイツの天文学者ケプラーでした。それまでの観測結果や数学の発展により、火星の観測精度が桁違いに向上しました。

▼「それでも地球は回る」
 16世紀のイタリアの学者ガリレオ・ガリレイの名文句はとにかく「地球はなぜ動くのか」という議論に決定的な答えを出したのは、17世紀のイギリスの著名な学者ニュートンの「万有引力の法則」でした。

稲荷信仰

 稲荷神社に祀られる祭神は、京都・伏見稲荷大社の宇迦之御魂神(ウカノミタマ。スサノオの娘)系統か、伊勢神宮の豊受姫(トヨウケビメ)系統の2系統に分けられます。この二神は同一視されることもありますが、宇迦之御魂神は国津神(出雲王朝系)で、豊受姫は天津神(大和王権系)。混同すると辻褄が合わなくなるので、別だと考えるのが妥当ではないでしょうか。

 よく誤解される方がいますが、稲荷神社に祭られているのは女神でありキツネ自体ではありません。キツネは参拝者と祭神の橋渡し的な存在。つまり狛犬がキツネに置き替えられたのがお稲荷さんなのです。東日本の寂れた神社の中には、本来は神の使いのヘビやキツネ自体を神として誤って祀る神社もあるようです。また、神社に供える榊は寒さに弱く木が枯れてしまうので、東北ではヒサカキという名前の似た常緑広葉樹を供えます。

 神社の屋根の形や装飾を見れば、祭神が「天津神」か、あるいは「国津神」なのか。さらには「男神」か「女神」かを見分けることができます。本殿正面の屋根が水平なのが「天津神」で、山形になっているのが「国津神」。異なる場合もありますが、屋根の装飾(鰹木)が「奇数は男神」で、「偶数は女神」になります。

 飛鳥時代の仏教伝来の際に「国津神(出雲国の祖神)の怒りを招く」と発言した排仏派・保守派の"物部氏"は国津神の子孫で、それに対向した推進派の"蘇我氏"は天津神の子孫とされます。

 稲荷神は先述の通り女神なので、男性の参拝者は歓迎する一方で、女性参拝者は冷遇されたり、カップルが参拝すると嫉妬から別れさせられるという根も葉もない与太話もあるのだとか。

狛犬と狐と獅子とシーサーとスフィンクスと

 狛犬とは、獅子や犬を模した日本の獣であり想像上の生物。神社や寺院の入口の両脇、あるいは本殿・本堂の正面左右などに一対で向き合う像で、参拝者と正対する形で置かれる事が多く、その際には無角の獅子と有角の狛犬とが一対とされます。狛犬は伝来した時点では獅子を模したものでしたが、飛鳥時代の公家にとって文献で読むライオンは見たこともない動物だったので、身近な犬に置き換えられました。平安時代までに獅子と狛犬の像が対で置かれるようになり、狭義には後者のみを狛犬と呼び、現在では両者を併せて狛犬と呼ぶのが一般的になりました。

 狛犬の起源はペルシャやインドのライオンを象った像で、古代エジプトやメソポタミアでの神域を守護するライオンの像もその源流とされ、古代オリエント諸国では神や王位の守護神としてライオンを用いる流行があり、その好例がスフィンクス像とのことです。

 今も沖縄の民家にはシーサー(獅子)が対で置かれますが、公私混同ながらも民家自体が神社の構造になる発想に驚愕であります。沖縄人は本土人と同じく縄文人の子孫であり、古代エジプト文明や古代マヤ文明と同様に《太陽信仰》などの共通項も多いので、ただの偶然ではないと慮るしだいです。農耕民族にとって《太陽信仰》は最も原初的な宗教の一つです。

《神道》になぞらえて《琉球神道》とも呼ばれる沖縄の信仰は、本州と共通項が多いことで知られます。

◆最高神
神道:アマテラス(最高神・太陽神・女神)
琉球神道:アマミキヨ(最高神・太陽神・女神)

◆天界の概念
神道:高天原
琉球神道:ニライカナイ

◆神職
神道:巫女、神主
琉球神道:巫女、ノロ、ユタ

 ノロやユタは、東北の"イタコ"のような存在。ノロは血筋で任命される公務の巫女で、おもに長女が任命され、結婚も許されません。ユタは霊感が強いと名乗る民間による口寄せの巫女です。

 この《琉球神道》と《神道》の共通項が多いのは、本州と同じく縄文人の子孫であり、大和民族の支流だからだと考えられます。現存する縄文人と共通の遺伝子(Y染色体)を持つ人種は「北海道から沖縄までの日本人」「チベット人」「アンダマン諸島の人々」だけです。

大和民族 - Wikipedia

エジプト文明

 紀元前3000年の古代エジプトでは、毎年起こるナイル川の氾濫を予測するために天文観測が行われ、太陽暦が作成されました。川の氾濫が収まった後、農地を元通り配分するため測量術、幾何学、天文学が発達しました。

 古代エジプトでは元号と同じように「『王の名前』の統治何年」と歴史を記録しました。西暦に置き換えた際は学者によりずれが生じます。

 "ファラオ"とは、神権を行使しエジプトを支配した皇帝を指す言葉で「太陽神ラーの子」を意味します。王を神格化するために名前の一部に神の名が含まれます。貴族階級は人口の1%ほどで土地を支配し、残りの99%は平民でした。貴族の教育制度については、どの文献にも明確な記載はありませんが、数学・医学・建築などの体系的な教育システムが必要な分野が発展していたため、教育体制が整備されていたと考えられています。

 文献から古代エジプトの教育内容に関する知識が垣間見れます。授業内容は学校の目的によって異なり、神殿付属校では宗教儀礼、宗教文学、葬祭の経典、経典の注解、神話物語などが授業内容で、一方の政府学校では、算数、幾何学、測量術、簿記、官庁の書類作成などが授業内容だったと推測されています。


▲古代エジプトの壁画文字「ヒエログリフ」

 古代エジプトの象形文字「ヒエログリフ」から派生した「原カナン文字」は、アラビア文字、ギリシア文字、ヘブライ文字、ラテン文字、キリル文字、ティフナグ文字、モンゴル文字、一説によるとパスパ文字を経由してハングルにいたるまで、世界で使用されるほとんどのアルファベットの起源とされます。

 ヒエログリフは句読点がなく読みづらい言語の一つですが、壁画を書く壁の作りに合わせて横書き・縦書き・左右どちらからでも書けます。横書きの場合は、人が向いている方向と反対側から読みます。

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 たとえば上記の場合は人物が左を向いているので左から右に読みます。

 ヒエログリフは19世紀にようやく解読されました。ナポレオンのエジプト遠征で発見されたロゼッタストーンという3つの言語で同じ内容が併記された石碑が、古代エジプト言語の解読作業に劇的な進歩をもたらしたのです。

 1日を24時間としたのも古代エジプトという説があり、数学は社会に応用するための実学とされ、課税調査や生産物の貯蔵と配分、現物支給の報酬の計算などに単位分数の計算「エジプト式分数」が多く用いられました。また、幾何学は耕地の測量や建設、天文学など理工学の発展にも寄与しました。

「0の概念」などの実社会と関連が薄い分野は発達せず、0の記号もなく偏りがあったようです。しかし「0の概念」は数学に影響を及ぼすので、実社会と関連性がないとは言い切れないと思います。古代エジプトでも現代と同じく十進法を用いましたが、古代シュメールの影響により、時間のみ十二進法が利用されたことから24時間制(AM12時間・PM12時間)になりました。

「一日25時間あればいいのに」と言う人がいます。
 24時間=1440分を25等分にすると、1時間=57分36秒の一日25時間制が成立します。

 1440 ÷ 25 = 57.6 (57分36秒)

 古代エジプトの音楽についての研究は、考古学者と音楽研究者の間に交流がなく未だ研究が進まないものの、銀製のトランペットに似た楽器やフルートのような楽器が出土しています。現代の西洋音楽の基礎となったという見解もあります。音階は掛け算・割り算・分数で割り出せるので、数学が発達しているなら音楽も発達していたと推測できます。

 エジプト文明と並ぶ農耕文明のメソポタミア文明が、異民族の侵入を被り支配民族が移り変わったのと比べ、地理的に孤立した位置にあったエジプトは比較的治安が安定していました。

黄河文明

 漢字は、古代四大文明の発祥で唯一現存する象形文字(古代エジプトの壁画文字等)であると同時に世界で最も数の多い字。日本の新聞や公共放送で使用される漢字の種類は約2,300字。香港の常用字は4,759字。台湾の義務教育(12年間)で習う常用国字標準字体表は4,808字。漢字は約75,000種類ほどあり、常用されない漢字を含むと10万種類以上はあるとされます。

漢字の字体一覧

簡体字
◆使用地域:本土(北京・上海・四川)、シンガポール、マレーシア
◆例文:欢迎来到日本

 1950年代の「文字改革」より制定された新しい字体で、これまで使われてきた「繁体字」をもとに偏や旁が簡略化され画数を減らした字体。北京や上海などの本土やシンガポールやマレーシアでも使用されます。

繁体字
◆使用地域:香港、台湾
◆例文:歡迎來到日本

 本来の画数の多い字体で、日本の「旧字体」と同じつくりの字体。
 民主主義・特別行政区の香港と台湾で使用されます。

旧字体

「學」「國」「爲」「屬」「鐵」「體」など、昭和初期まで使われた画数の多い漢字で、元々は上記の「繁体字」と同じつくりの字体です。

新字体

「学」「国」「為」「属」「鉄」「体」など、「旧字体(繁体字)」の画数を簡略化した漢字で今現在の日本で使用される字体。昭和24(1949)年に内閣が告示しました。

◇参考資料:当用漢字字体表|文化庁

 その後、日常的に新聞や公共放送などで使用する漢字は約2,300種類ほどにしぼられましたが、それ以外の漢字は「常用外漢字」として殊更に今も小説や詩などでは自由気儘に使用されます。

 古代エジプトの壁画文字や黄河文明の漢字などの象形文字は「概念や物の数だけ字がある」ことになります。日本はG7(主要先進国)で唯一、お米が主食で生魚も食べますが、もし寿司職人になるために「鮭」「鯛」「鮪」「鯵」「鰹」「鮃」「魬」「鱒」「鯊」と寿司のネタを全て漢字で書く必要があるとなると多くの人が寿司職人の道を諦めてしてしまうのではないでしょうか。いくら文化的な希少価値があるとは言え、ヒエログリフを使って授業内容をノートに写したり、ビジネスメールを書くとなると、非効率的で経済にも大打撃を与えかねません。

 そこで韓国は早々に漢字を撤廃して「ハングル」を考案し、日本は平安時代に世界一画数の少ない漢字体系「ひらがな」を考案しました。

ひらがな

「ひらがな」は漢字の字体を簡略化したもので、「カタカナ」は漢字の字体を崩したものが多くなります。

〈ひらがな〉
安 → あ
以 → い
宇 → う
衣 → え
於 → お

カタカナ

〈カタカナ〉
阿 → ア(阿の左部分)
伊 → イ(伊の左部分)
宇 → ウ(宇の上の部分)
江 → エ(江の右部分)
於 → オ(於の左部分)

ハングル

「ハングルはひらがなのようなもの」とよく言われますが、精確にはローマ字に近い文字体系だと思われます。ひらがなは漢字と同じく当て字なので、字の作りで発音までは分かりませんが、ハングルはローマ字と同じく発音記号の組み合わせなので、字の作りから発音が分かるのでしょう。

 日本語の活字やWeb記事が読みにくくなる原因は「スペースがない」ことに起因します。ブラウザ上の英文は「一つのスペル」を日本語の文章でいう「一文字」のように認識するので、二字~四字熟語の「右端折り返し」で頻発するような誤読の心配もありません。

 英文の世界では、改行・段落が多いと目の左右の動きが増えて疲れやすくなる上に、活字ではページが増え、ブラウザ上ではスクロールが多くなるのであまり好まれないとのこと。しかしながら一行ごとの改行・段落が好まれない英文脈でも、単語ごとのスペースがなければ、どう読めばいいのか解せないただの記号の配列に見えてしまいます。

 試しに、日本の活字やWeb記事のように、英文をスペースなしで書くと以下のようになります。

INTHEBEGINNINGWASTHEWORD,ANDTHEWORDWASWITHGOD.HEWASWITHGODINTHEBEGINNING.THROU GHHIMALLTHINGSWEREMADE;WITHOUTHIMNOTHINGWASMADETHATHASBEENMADE.INHIMWASLIFE,AND THATLIFEWASTHELIGHTOFALLMANKIND.THELIGHTSHINESINTHEDARKNESS,ANDTHEDARKNESSHASN OTOVERCOMEIT.THEREWASAMANSENTFROMGODWHOSENAMEWASJOHN.HECAMEASAWITHNESSTOTESTIF YCONCERNINGTHATLIGHT,SOTHATTHROUGHHIMALLMIGHTBELIEVE.HEHIMSELFWASNOTTHELIGHT; HECAMEONLYASAWITHNESSTOTHELIGHT.THETRUELIGHTTHATGIVESLIGHTTOEVERYONEWASCOMINGIN TOTHEWORLD.THETRUELIGHTTHATGIVESLIGHTTOEVERYONEWASCOMINGINTOTHEWORLD.HEWASINTH EWORLD,ANDTHOUGHTHEWORLDWASMADETHROUGHHIM,THEORLDDIDNOTRECOGNIZEHIM.HECAMETOT HATWHICHWASHISOWN,BUTHISOWNDIDNOTRECEIVEHIM.YETTOALLWHODIDRECEIVEHIM,TOTHOSEWHO BELIEVEDINHISNAME,HEGAVETHERIGHTTOBECOMECHILDRENOFGODCHILDRENBORNNOTOFNATURALD ESCENT,NOROFHUMANDECISIONORAHUSBAND'SWILL,BUTBORNOFGOD.
BOOK43JOHN

 いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。はじめより我はと思ひ上がりたまへる御方がた、めざましきものにおとしめ嫉みたまふ。同じほど、それより下臈の更衣たちは、ましてやすからず。朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、いと篤しくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、いよいよあかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえ憚らせたまはず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。上達部、上人なども、あいなく目を側めつつ、「いとまばゆき人の御おぼえなり。唐土にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れ、悪しかりけれ」と、やうやう天の下にもあぢきなう、人のもてなやみぐさになりて、楊貴妃の例も引き出でつべくなりゆくに、いとはしたなきこと多かれど、かたじけなき御心ばへのたぐひなきを頼みにてまじらひたまふ。
(紫式部『源氏物語』)

たのもしき カミの しもべよ
わが きょうかいに どんな
ごようじゃな?
(『ドラゴンクエスト』神父)

 ひらがな・カタカナだけでも、ハングルのようにスペースと改行を使用すると劇的に文章が読みやすくなります。どうやら一行ごとに改行する文化は『芸能人の携帯向けブログ』が普及してからとのことです。


 ところで世界で最も普及している音楽配信サービスのBandcampでは、数年前まで日本語タイトルの曲をDLして解凍するとすべて文字化けする謎の現象が起こりました。IT技術者の「いい加減に文字化けした漢文じゃなくて英語タイトルをつけてくれ」という意図が込められているような気がしますが、今は日本語タイトルにも対応してくれたようです。国産の音楽専門SNSや販売サイトは普及しないので、海外のWebサービスを利用するしかありません。ちなみにBandcampに含まれる単語の頭文字から二文字をローマ字読みすると……。

縺ィゅ縺薙縺ァ莉ぅ蜑阪ゅぅソア縺ァ髻ウ讌スアウ驟堺ソ。繧オ繝シ繝薙ひ縺ョ律譛ャ隱槭ち繧、繝医Ν縺ョ譖イ繧奪L縺励※隗」蜃阪☆繧九→縺吶∋縺ヲ譁ぅヲマ?ュ怜喧縺代☆繧玖ュャ弱?迴セ雎。縺後≠アミ繧翫∪縺励◆縲ミズらアウ蝗スIT謚?陦楢???縲後>縺?刈貂帙↓譁?ュ怜喧縺代@縺滓シ「譁?ァr菴ラバソ繧上★闍ア隱槭ちガ繧ソバ、繝医Ν繧偵▽縺代※縺上l縲阪→縺?≧諢丞峙ミ縺瑚セシ繧√i繧後※縺?k繧医≧縺ェ豌励′縺励∪縺吶′縲∽サ翫?譌・ャ隱槭ち繧、繝医Ν縺ォ繧ょッセ蠢懊@縺ヲ縺上l縺溘
▲文字化け

まとめ

「陰/女性的/ひらがな/和歌/古今集/古事記」
「陽/男性的/漢字/漢詩/万葉集/日本書紀」

 日本語は漢字で書いてもひらがなで書いても声に発すると同じ発音になります。
 つまりわたしたちはほんしつてきにひらがなだけでいしそつうしているのです。

インダス川文明

『平家物語』

「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。 おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。 たけき者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ」

▽現代語訳
「祇園精舎の鐘の音には諸行無常、すなわちこの世の総ての現象は絶えず変化して行くものという響きがある。沙羅双樹の花の色は、どれだけ勢いが盛んな者も必ず衰えるという道理を表す。世に栄え得意になる者も、その繁栄は永久に続かず、春の夜の夢のようである。勢い盛んな猛き者もいつか滅び去り、まるで風に吹かれる塵と同じようである」

千年、続きますように

『君が代』の原文は藤原定家らが編纂《へんさん》した『古今和歌集第7巻(912年以前)』に記載されています。

「わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」
 現代語に訳すと「あなたは千代も八千代も長生きしてください。小さな砂利が悠久の年月を経て巌となり、さらにそれに苔が生えるほどまでも」という意味になります。

「わが君」とは、皇帝を指すだけではなく広義の意味も含むとされ、主君、両親、親族、配偶者、友人にも当てはまり、敬愛する人に向けた長寿を祝福する歌とされています。

 日本では古来より《仏教》のように人は生まれ変わるものだと信じられていました。肉体は老い、死を迎えても、魂は再び人となってこの世に生まれる。つまり「さざれ石の巌となりて」は、「生まれ変わって何度でも」という意味として捉えられます。

 忘れてならないのは、さざれ石は、小さな小石が結束して大きな岩石となるという点です。ひとつひとつは小さな小石でも、大きな力で団結したら、それは大きな「巌」となります。つまりさざれ石は、「きみ=男女」の結束で生まれる子供らや、新たに親戚となる者たち、その総ての人々が固く協力し合うことの象徴でもあります。

 そうして最後に『君が代』は、「苔のむすまで」と締めます。苔は冷えきったり、乾燥したところには生えません。濡れていて、水はけの良いところに生育します。濡れたものと固いものがしっかりと結びついたところに苔は生えます。また、「苔のむす」のむすを漢字で書くと「生す」と書きます。生すとは子供を養い育てると言う意味合いがあり、苔は永遠に存在するものではなく、その中で新しい生命が誕生し、古いものが死に土となり、徐々に広がりを見せるという子孫の繁栄を示しているというのです。

《神道》の中心にあるのは「生む」ことではなく、「育てる」ということ。「苔の生すまで」とは、古いものが土となり、新しいものを生み、育て繁栄させましょうという意味合いなのです。すなわち「苔」とは、「きみ=男女」が、互いにしっかりと結びつき、一緒になって互いに協力し合い、時には笑い涙を流し、長い年月をかけて生育する。 男女の慈しみと協力を意味します。

 以上のように『君が代』とは、人類の持ち得る愛情を高らかに謳い上げた「祝辞の歌」だと慮る次第であります。

『君が代』の作曲は幕末~明治前期の雅楽演奏者"林廣守"。編曲はドイツ人の音楽教師"フランツ・エッケルト"です。明治時代の日本にはまだ西洋和声・音楽理論の専門家がいなかったので、ドイツ人の音楽家によってオーケストラ編曲がなされました。

 冒頭をC長調と仮定すると、長9度の音から旋律が始まります。この9thから始まるメロディは戦場のメリークリスマス千本桜のサビや、イエスタデイの歌い出しでも聴けます。途中のルートが半音階で動く箇所は、G長調として捉えると「D#dim - Em」というコード進行とも読めます。このルートの半音階の動き(#Ⅴdim7 - Ⅵm7)は昨今のアニソンやボカロ曲のサビでも頻繁に聴けます。また、筆者がその昔にブログで取り上げたFountains of WayneのStacy's Momのサビでも使用されています。

 この長9度から開始する和風メロディと、サビで哀愁を醸し出すdimコードは、特に日本人が好む傾向があるようで、昨今の人気曲でも数多く耳に出来ます。

《仏教》

 紀元前5世紀前後の北インドで釈迦(シャカ)族の王子として生まれた釈迦(仏陀)は、子供の頃に城下町で老い・病み・死にゆく者たちを見て、この世の無常を覚りました。それ以来、思い悩み塞ぎ込むようになってしまった釈迦の将来を案じた国王は、釈迦が16歳になる頃に隣国の姫と結婚させました。そうしてしばらくの間は平穏を取り戻したかのように見えた釈迦でしたが、19歳の頃に息子が生まれてから、また何かを思い詰めたように表情に影が差し始めたのでした。

「人は老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見て考え込んでは嫌悪した。そう考える自分もまた老いゆくもので、その宿命は免れない。私はこのように『病』『死』を観察して、健康時における健康の意気はまったく消え失せてしまった。そうして生存時における生存の意気もまったく消え失せてしまった」
(中村元『ブッダ 釈尊の生涯』中村元選集第11巻, 春秋社)

 この世の総てのものは恒常な実体はなく縁起によって存在する。目に映るもの、形創られたもの《色》は、実体として存在せずに時々刻々と変化するものであり、不変なる実体は存在しない《空》。仏教の根本的考えは因果性《縁起》であり、その原因《因果》が失われたら、たちまち現象《色》は消え失せる。それが「色即是空」である。

《此》が有れば《彼》が有り、《此》が無ければ《彼》が無く、《此》が生ずれば《彼》が生じ、《此》が滅すれば《彼》が滅す。《見られる人》がいなければ《見る人》はなく、《読む人》がいなければ《書く人》はいない。

 諸行無常、すなわちこの世の総ては移り変わるもので何一つ確かなものはなく、富や名声、愛する人の命も永久には続かない。

 釈迦は29歳の頃に安逸な生活に留まらず、人生の真実を追求するために王子の地位を捨てて出家したのでした――

カルマ(業)

 インド哲学の《仏教》におけるカルマ(業)とは、行為や所作、意志による身心の活動や意志による生活を意味する語。仏教、及びインド発祥の宗教では、善悪の業を作ると因果の道理によってそれ相応の苦楽の報い、果報が発生するとされます。

 インドには宗教と哲学の境界線がなく、またこれを東洋哲学とも呼びます。仏教はすべての結果について「偶然による事物の発生」「原因なく事物が突然、生じること」「神による創造」を否定し、その因果応報を説きます。カルマの思想はインド発祥の宗教と道教において輪廻転生(生まれ変わり)と強く結びつく概念で、これらの説では善因善果、悪因悪果をもたらすとされます。

◇過去⇒未来⇒現在
 時系列順に並べると、過去から現在へ、現在から未来へと時は流れます。つまり出来事は「過去⇒[現在]⇒未来」の順で影響を与えると考えられます。しかし、《仏教》では解釈が変わります。過去だけではなく未来も[現在]に影響を与えると説かれるのです。

◆時系列順:過去⇒[現在]⇒未来
◆仏教解釈:過去⇒未来⇒[現在]

 たとえば、週末に原稿の〆切が迫っていると仮定しましょう。その〆切に間に合わせるために、今から急いで原稿を書き上げなくてはなりません。つまり「未来によって今現在の行動が変わる」というわけです。

 J-POPの歌詞にありがちだった「今この瞬間を大切にしよう」という思想もまた仏教徒的な発想でしょう。

16進数

 Google、Microsoft、Adobe等など世界を牽引する著名なIT企業におけるCEO(代表取締役社長)はインド系アメリカ人の方が多いようです。筆者の認識では「0の概念」や仏教発祥の地がインドであり、その他にも義務教育(算数)の学習が4歳から始まり、小学二年生の段階で20×20までの暗算を覚え、小学校を卒業するまでに三桁の掛け算の暗算を会得すると聞き及んでいます。インド人は関節のしわを用いて、片手で16まで数えられますが、それが16進数の礎になったようです。

 16進数とは、0から9までの10個の数字と、AからFまでの6個のアルファベットを使って数値を表現する方法。16進数では一つの桁において0、1、2、3、4、5、6、7、8、9、A、B、C、D、E、Fと並ぶ16個の数値を扱うことが可能で「A」が10進数における「10」に相当し、「F」は同じく10進数の「15」に相当。「F」の次は位取りをして1桁上がり「10」となります。

 日常生活では0から9までの10個の数字を使った10進数が主に使われますが、コンピュータでは2進数と並んで16進数を扱うことが多く、ASCIIコードや日本語の文字コード、色を示すカラーコード等は16進数を使用します。

 16進数の3F7Bを10進数に変換すると4096×3+256×15+16×7+1×11=16251になります。また、10進数の12345を16進数に変換するには次のように計算します。

 12345=4096×3(余り57)
 57=256×0(余り57)
 57=16×3(余り9)
 9=1×9(余り0)

 10進数の12345は、16進数では3039になりますが、わざわざこのような計算をしなくてもweb上には10進数と16進数の相互変換サイトがそこら辺に転がっているので、異なる進数間での変換が必要な際はそちらを利用すればいいでしょう。

2進数、8進数、10進数、16進数相互変換ツール

 その数値が16進数であることを示すために、3F7B(16)や0x3F7B、3F7Bh、&h3F7B、$3F7Bのように記述することもあります。なお、AからFまでの6個のアルファベットは小文字で表記してもいいとのこと。

 プログラムや遺伝子は「1《有/優性遺伝子》」「0《無/劣性遺伝子》」の二進数で表記されることが往々にしてあります。インドが「0の概念」を発見していなければ、コンピュータのプログラム表記は今と大きく勝手が違っていたのかも知れません。

 ちなみに世界中の人類が使用する数字(1, 2, 3)は、インド数学に起源を持つ「アラビア数字」です。

馬の耳に念仏

「馬の耳に念仏」とは、馬に念仏(お経)を唱えても馬の頭では理解できないという意味合いの諺ですが、そもそも人間に生まれたところでお坊さんに読経されたとしても、ほとんどの人類にとって理解不能なのが念仏なので、「人類の知能は馬に等しい」という意味合いにも受け取れてしまうのではないでしょうか。

 人類史において真っ先に文明が発展した国々の共通項として、馬を活用していたことが挙げられます。車のない時代では馬が車の役割を果たしていたからです。荷車を数頭の馬に牽引させれば馬車になり、それを戦場で応用すれば戦車にもなりました。つまり当時は車・電車・貨物車・戦車として馬は必須の存在だったのです。

 ちなみに日本では4世紀末頃に大陸より騎馬の風習が伝わって6世紀には広まり、武芸の一つとして弓馬の術が鎌倉時代・室町時代以降に盛んになり諸流派を生みました。しかしながら、戦国時代・関ヶ原の戦いを経て江戸時代には戦のない世になり、数百年後には黒船が到来。明治時代に政府は兵制の改革を行い、日本式馬術は採用せず洋式馬術が取り入れられました。

 これにより古来より日本にあった馬術はほぼ廃れ、現在は一部の研究家が実践するに留まっており、時代劇や大河ドラマなどの乗馬シーンのほとんどは🇬🇧ブリティッシュ(英国式)馬術か🇺🇸ウエスタン馬術が用いられます。

『暴れん坊将軍』は東映制作の時代劇シリーズ。江戸幕府の第八代将軍“徳川吉宗”が、身分を偽り貧乏旗本の三男坊“徳田 新之助”を名乗り、江戸庶民の暮らしに紛れ、交流を図りつつも、世にはびこる悪を斬る勧善懲悪ものです。

 頭頂部の髪を抜き上げる「月代(さかやき)」は、本来はお武家様の髪型であり、江戸町民の男性全員が手入れの面倒な月代なのは不自然だと思われますが、現在の普及する時代劇はほとんどこの状態です。誰が本当にお武家様なのか第一印象ではよく判らない状況下にあると言えるでしょう。

 ちなみに時代劇や大河ドラマで騎乗される大型馬のサラブレッドは、江戸時代までの日本に本来おらず、実際はポニーほどの大きさの馬に乗っていたようです。「丁髷」は韓国から渡来した髷の結い方とされますが、本当に韓国の貴族がこの髷の結い方だったのか疑問です。いずれにしても「辮髪(べんぱつ)」が原案なことは予想できます。また、多くの時代劇のチャンバラシーンで流れるBGMは西部劇風の曲ですが、当時の江戸にはヨーロッパ製の弦楽器やトランペットはありませんでした。

飛鳥時代

百済の滅亡

 西暦662年に、唐と新羅が手を結び、百済を陥落させました。それでも百済兵は各地で抵抗しており、古くから百済と交流のあった大和王権は、そこに援軍を送ることになりました。幾度かの戦ののち大和王権の水軍は全滅し、百済も滅びました。大和王権は唐の進軍を警戒し、こうして福岡に大宰府が設営されました。この時点で、朝鮮島南部は新羅の支配下になりましたが、北朝鮮より北の一帯は、凄まじい武力を持つ騎馬民族・高句麗の領土でした。

 高句麗は当時最強とまで謳われた重装の騎馬隊を有していました。

 高句麗の二番目の統治者ユリ王は、王国の創始者である聖チュモの長男で、彼の生涯は他の朝鮮統治者と同じく『三国志』に記されているとのことです。

 唐と新羅は協力し、この高句麗をせん滅しました。4世紀頃に、倭(近畿地方を中心とする勢力)も高句麗と戦を交えましたが、その時に高句麗の騎馬戦力に触れて、戦に馬術が必要だと考えられ始めたようです。これが倭人が乗馬を始めたきっかけとも言われます。日本に馬が初めて登場するのが5世紀頃で、弥生時代に魏で執筆された『三国志〈魏志倭人伝〉』には「倭に馬は無し」と記述されていました。

 唐揚げ(からあげ)は唐がルーツだとされ、普茶(ふちゃ)料理という精進料理があり、この普茶料理の中に現在の唐揚げに似た食べ物が入っていました。元々の唐揚げは、豆腐を細かく小さめに切り、揚げた後、醤油やお酒で煮込んだものでした。また、中国では「唐揚げ(とうあげ)」と読まれていたようです。

◇飛鳥時代のまとめ:公益財団法人・古都飛鳥保存財団


▲モンゴル帝国と中世までの後継国

古墳時代

 大和王権が蒙古馬を輸入し始めた頃、馬は権力の象徴でもありました。古墳時代の群馬県域に〝馬形埴輪〟が多いのは、権力をアピールするためだと考えられます。このようにして馬の導入により、大和王権(近畿地方)と《群馬文化圏》を繋ぐルートが確保され、群馬にも大規模な古墳や、熟練された〝はにわ〟作製の技術が伝来しました。

 重要文化財・国宝に指定される〝はにわ〟のうち、40%は群馬県から出土されました。資料の群馬県ホームページによると、群馬県域の〝はにわ〟は6世紀の中頃から群馬以外では見られない高度な発達をとげました。そうして有力な豪族がこぞって多くの〝はにわ〟を並べたために《群馬文化圏》の熟練〝はにわ職人〟が育成されたとのことです。

 この人間国宝級の職人技は、高句麗の騎馬隊も称賛するに違いないでしょう。

〝はにわ〟の起源は、弥生時代の特殊壷や特殊器台と呼ぶ葬儀用の土器とされます。時代を追って家形や器財形などの形象をかたどった次世代の〝はにわ〟が追加され、古墳時代の中期になって実績と信頼の〝人物埴輪〟や〝馬形埴輪〟が作出されたのです。2012年から5年を費やして群馬県が実施した古墳総合調査により、県内に1万3249基の古墳が確認されました。このことから群馬県は東日本最大の古墳大国であるとも言えるでしょう。

 また、全国の〝こんにゃく芋〟の90%以上は群馬県で生産され、その生産量は年間約5〜6万tにも及びます。日本で最もこんにゃく芋の消費が多いのは山形県。その歴史は古く、すでに平安時代からこんにゃくを食べる《食文化》があったとされます。こんにゃくのカロリーは100gあたり5kcalと低カロリーでダイエットに効果抜群とされます。今もなお、山形県のこんにゃく消費量は、東京のじつに約2.4倍と言い伝えられています。

 古墳時代における東国文化の中心地は群馬県で200mを超える大型古墳も確認されています。巨大な古墳は有力な豪族の墓とされるので、それだけ多くの権力者がいたのだと推測されます。また、国の重要文化財に指定される〝はにわ〟全42件のうち19件(45%)は群馬県から出土されました。さらに群馬県内で発見された動物埴輪のうち90%は〝馬形埴輪〟です。当時の馬は財力や軍事力、権威の象徴だったことを如実に物語っているでしょう。

 古墳時代の人々の明確な暮らしは判明していませんが、民家の周囲に畑や家畜小屋が発掘されました。水田は小さなものが多かったようですが、農家の他にも石で首飾りを作る職人や、金属を加工する職人。さらには〝はにわ〟製作の職人もいました。

 たとえ自分の名が残らなくても〝つくった作品そのもの〟が後世に残ったとしたなら、きっとそれは本望なのだろうなと思うしだいです。せんえつながら縄文土器や群馬県産の〝馬形埴輪〟をつくった作者も同じ考えだと勝手に思う今日この頃です。

▼古墳時代のまとめ
・古墳時代における東国先進国は群馬県
・〝はにわ〟の約45%は群馬県から出土
・群馬県で発見された古墳の数は1万3249基
・東国で200m以上の大型古墳は群馬のみ
・全国流通する〝こんにゃく芋〟の90%以上は群馬県産

フランク王国

 飛鳥時代のヨーロッパでは、西ローマ帝国を滅亡させたゲルマン王国が300年のうちに滅びましたが、その中でフランク王国だけが発展し、西欧の中心勢力となっていきました。5世紀後半に建国されたフランク王国は、西ヨーロッパのほぼ全体を治め、現在のドイツ・フランス・イタリアの基礎がつくられました。 宗教面では"ローマ教皇"を中心として、《キリスト教》の信仰が人々のよりどころとなりました。

《カトリック教》の典礼音楽に「グレゴリオ聖歌」があります。ラテン語の祈りの言葉にメロディをつけた聖歌で、中世まで育まれてきました。フランスでは現在もグレゴリオの教会や修道院があり、神に捧げる祈りの歌を聴けます。日本でも使用される階名の「ドレミファソラシ」は、西暦1000年頃に修道士で音楽理論家のグィド・ダレッツォが考案したとされます。

 グレゴリオ聖歌は数が多く、聖歌隊も覚えるのが困難な状態でした。そこでグィドは『洗礼者聖ヨハネ賛歌』の歌詞(ut〈do〉, re, mi, fa, sol, la)を当てはめて音楽教育に取り入れました。当時、典礼音楽のメロディは口伝で伝えられていましたが、音の動きを示すネウマという記号から、四線譜に音符を書き込む楽譜が考案され、さらに五線譜に発達をとげました。


■サン・ピエトロ大聖堂の内装

 イタリアのサン・ピエトロ大聖堂は、カトリック教会の総本山。世界最大級の教会堂建築。ルネサンス時代・バロック時代を通じ、ローマ教皇にふさわしい巨大教会堂として再建され、第一級の芸術家たちがその造営に携わりました。創建は4世紀ですが、今の聖堂は二代目(1626年)です。

 ちなみにトイレの歴史は以外と古く、6,000年前の古代メソポタミア文明には、すでに下水道と水洗型のトイレが使用された痕跡が発見されました。紀元前2,200年前のイラク北部シュメール時代の遺跡や、バビロニア王国(現トルコ)の都市ウル、古代ギリシャ文明やインダス文明にも下水道はありました。特に古代ローマは下水道網が発達しており、紀元前7世紀に完成した下水道は現代も使用されています。

 ところが5世紀頃に上記の西ローマ帝国が滅びると、古代ローマ式のトイレは失われ、ヨーロッパのトイレ事情は古代文明以下に転落してしまいます。中世ヨーロッパまでのトイレ事情は、この場では差し控えたいと思います。1830年代のロンドンで感染症コレラが蔓延したのをきっかけに、ようやく衛生観念が芽生えてトイレ事情が改善され始めました。つまり産業革命の時代までヨーロッパでも水洗式トイレは広く普及していなかったのです。

江戸時代後期

 江戸時代の幕末維新は1853(嘉永6)年の黒船来航から始まりました。幕末の日本に影響を与えた欧米列強は、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダの5ヶ国です。

《産業革命》~第二次産業の幕開け~

 産業革命は18世紀のイギリスから始まり、その後は西ヨーロッパ諸国、アメリカ、ロシアなどに拡大し、欧米諸国は農業文明(第一次産業)から工業文明(第二次産業)社会に移行しました。産業革命は綿工業から始まり、その発展は鉄工業、石炭業、機械工業などの諸産業の発展を促し、石炭と鉄の時代を到来させました。

 1830年以降になると、機械による大量生産体制が確立。産業革命の技術革新の総仕上げとして鉄道が出現。さらに帆船から蒸気船に転換し、それが自国内だけでなく、世界に進出する足掛かりとなりました。産業革命によって大量生産された製品は、まずは自国内で消費されましたが、すぐに飽和状態となりました。産業革命の進展は原材料の高騰や枯渇をもたらし、労働力の確保も課題となりました。その補給先も、自国外で確保しなければならない循環に陥ってしまったのです。

 初めに産業革命を果たした英国は、ヨーロッパ大陸に市場を求め、さらには米国、そしてその矛先はアフリカやアジア諸国に向かいました。原材料の確保も同時に企図されるが、これも欧米以外に依存しました。英国以外でもフランス、ドイツ、アメリカ、ロシアなどが順次に産業革命を進展させ、資本主義国家群を形成し、欧米全体がアジア市場を求めて進出しました。その際には製品だけでなく軍隊も派遣し、武力を伴った支配化、つまり発展途上国の植民地支配を実行しました。これが帝国主義の時代の幕開けです。

 当初の英国は東インド会社を国策会社として設立し、アジアに対する貿易と植民地経営を積極化させました。英国の植民地化を阻止すべく1857年にインドの反乱が起こりましたが、軍事力の差により鎮圧されました。翌1858年にムガル帝国が滅亡し、英国がインド全土の支配を開始しました。

 19世紀に入ると英国の自由商人活動は活性化し、清にインド産のアヘンを密輸し始めました。アヘンの流入を阻止したい清国と、密輸を継続しようとする英国との間にアヘン戦争が1840年に勃発。清は英国の近代兵器に圧倒され、その後は欧米の侵略拠点となりました。そして中国の先にある日本に対し、いよいよ欧米列強が開国を求めることになりました。

 江戸時代後半の日本は長崎などの例外はありながらも鎖国体制でしたが、18世紀後半からロシアが北方から南下を始めたので、それに対する危機意識が高まっていました。江戸幕府は鎖国を貫こうとしましたが、アヘン戦争による清の大敗は衝撃を伴い、戦争回避を前提に外交が展開されました。

 幕府は外国船打払令(外国船とみれば躊躇なく追い払う令)とした政策から対外的な展開を図りました。それを契機にロシア、イギリス、フランス、アメリカが日本に接近して和親と通商を求め始めました。しかしながら、幕府は依然として鎖国を盾にその要求を拒否し続けました。そこに中国の政策に専念する英国を出し抜いて、嘉永6年にアメリカからペリー提督が開国要求の使者として来航したのです。

日露戦争

 1905(明治38)年、日露戦争後半の大規模な陸上戦「奉天会戦」の戦力はロシア軍36万、日本軍24万。兵士の数ではロシアが優勢。しかし、機関銃の数は日本が上回っており、兵力的には互角と見込まれました。

 戦場で日本は西側から回り込み、ロシア軍の退路を経つ包囲作戦に出ましたが、ロシアがそれを察知して全軍撤退を始めました。本来ならロシア軍を追撃すべきだったものの、兵士の数と弾薬が足りず掃討作戦を断念。拠点になる奉天の制圧に成功しましたが、新たな作戦を立てる余力もなく、もはや陸上戦は継続不能の状態でした。ロシア陸軍は撤退したと言っても、残りの兵力は約200万人。その数は日本陸軍の約10倍で、ロシア側も戦争続行の意向でした。

 そうして対馬海域にロシア海軍のバルチック艦隊が到着。陸上戦に続き、次は日露海軍による日本海海戦が開幕しました。天候は『天気晴朗なれど波高し』で日本に有利な状況。ロシア艦隊は、前方で突然大きく旋回した日本艦隊に総砲撃しましたが、日本海の高波や長い航海による疲弊もあり砲撃の精度は低く、砲撃を免れた日本艦隊が横に並び、一斉砲撃を加えて壊滅的なダメージを与えました。ロシア戦艦6隻、巡洋艦4隻など計15隻を撃沈。これによりロシア艦隊をほぼ全滅に追い込みました。

 この逆転劇がなかったらロシア軍の撤退もなかったでしょう。こうして長期にわたる摩耗戦が続き満身創痍だったものの、海戦史上かつてない勝利を治め、アメリカの仲介のもとで講和条約を結ぶ運びになりました。

 しかしながら、日本政府が日露戦争に費やした経費は15億2,000万円。これは当時の国家予算5年分にあたる金額。日露戦争の出征者は130万人。10年前の戦争は13万人だったので、その数の多さが分かります。さらに9万人(陸軍兵士の戦没率は8.7%)が死亡し、44万人が負傷。日本の目的はロシアの南下を防ぐことにありました。ロシアも日本に戦争の持続力がないことを知りながら戦略的撤退を行いました。ところがマスコミの誇大報道により国民は日本の大勝だと信じました。

 この時期は、国民の識字率の上昇に加え、新聞は各紙とも急激に部数を伸ばしており、大きな影響力を持つようになっていました。しかも戦勝の誇大ニュースを乗せると部数が増えるので、毎回ロシア軍に大勝しているように書き立てられていたのです。

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『ワルツ(令和三年度における改訂版)』


 この曲は「ズッ友」はさておき2009年12月24日に収録しました。
 動画で使用したイラストはsime様画です。
 もちろんのこと、使用許諾を得ております。


◇◇◇
 2010年2月上旬。謎の美少女"ttt5959"様に当楽曲を歌ってもらえました。
https://nico.ms/sm9620846

▼終局特異点 A.D.2007

 2007年9月上旬。二十歳の頃に2年間ほど務めた印刷製本業の仕事を唐突に解雇された。

 理由は「取引先に『もっと安く早く仕上げられへんのか』と足元を見られ始めたので注文を断ったから」とのこと。


 同年10月17日。神戸ハローワークの斡旋でケミカルシューズ製造業の面接を受けるために会社2階の事務室に入室した。

 椅子には茶髪の長い髪をアップに結った女性が着席しており、ずいぶんと驚いた様子でこちらを凝視していたが、面接官に席を外すように促されて事務室を退室し、そうしてすぐに僕の面接が開始した。

 後日、入室時に着席していた女性は事務員として、僕は作業員として同期入社する運びとなった。


――2007年10月19日。小雨の降る緊張の初出勤の日。

 延々と続く変わり映えのしない道を猪突猛進に歩き続け、勢いあまって会社の目前を通り過ぎ、咄嗟に踵を返したところ、今度は足を滑らせて転倒しかけてしまった。

 この先、無事にやって行けるのか不安になりながら気を取り直して社内に入ったが、まだ誰も来ていないようだった。


 不意に後ろから声を掛けられたので振り向くと一人の女性が立っていた。

 軽く挨拶と自己紹介を終えると、いきなり好きな音楽は何かと訊ねられた。

 どうやら彼女が好む音楽はThee Michelle Gun Elephant、Number Girl、Syrup16g、Bump Of Chicken等の下北系のロックバンドらしくすぐに意気投合した。

 そうして同じ持ち場の彼女から直々に仕事を教わることになった。

 ちなみに会社の前で足を滑らせた情けない後ろ姿はしっかりと見られていたらしい。

 翌日、彼女に何かお勧めのCDを持って来るように頼まれたので、彼女の気に入りそうなCDを何枚か持ち出して聴かせたところ、フジファブリックの『茜色の夕日』を甚く気に入ったようで何度も繰り返し聴いていた。

 後日そのCDは彼女に渡すことになった。

 それから彼女に手取り足取り作業を教わる日々が続き、「繊細そうな手」「東京の人みたいで面白い」と辛辣なことを言われて困惑したが、さらには「彼女はいるの?」「どうして彼女を作らないの?」「女の子が嫌いなの?」と受け答えに困る冷酷な質問をされ、「音楽に専念したいから」と情けない言いわけをしてしまった。

 同時に「貯金が貯まったら宅録環境を整えて曲を収録したい」と密かな夢まで語ってしまった。

 まるで馬鹿みたいだ。



──ある日の昼休み。結婚して東京に引越すことを彼女に告げられた。

 要約すると、月末に寿退社する彼女と入れ替わりに補填として僕は会社に採用されたのだ。

 その後はなぜか人生相談に乗ることになったが上の空で曖昧な答えしか返せなかった。

 相談は人間関係や子供時分の思い出話にまで及んだ。

 どうやら彼女は長い間、自分は変人なのだと思い込んでいたが、最近になって普通なのだと潔く覚ったらしい。

 東京では友人を作った方がいいのか聞かれたが、「子供ができたらママ友ができる」とは流石にその時は言えなかった。

「どんな人が来るのかと思ってたけど、いい子でよかった」

 なんだか褒めるにしても頼りないことを言われながら、意外と子供の頃の共通点が多くて驚いたが、横から割って入ってきた事務員に「結婚は結局のところお金」と断言されてしまったのだった。

 翌週に執り行われた「歓迎会兼送別会」と銘打たれて催された飲み会は、僕にとって歓迎会だったが、彼女にとっては送別会だった。

 僕は地元の神戸で働き、彼女は東京に行き嫁ぐ道を選んだ。

 彼女は結婚を修行のようなものだと思って頑張ると言ったが、僕にとっては就職して働くことが修行のようなものだった。

「もし私が三ヶ月後に離婚して神戸に帰って来たら、また一緒に働こうね」と冗談を言ってくれたが、たとえお互い違う道を歩んでも彼女が元気に過ごして居てくれたらそれだけで僕は一向に構わない。

「定年退職まで頑張ってね」

 そんな約束を彼女と交わしたのだった。

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「この飲み屋にいる中で誰が一番好みや?」

 ふいに上司から不躾な質問をされたので、真剣に周囲を見渡しながら悩んだ。

「このお姉さんが眩し過ぎて他の人は見えないよね?」

 お座敷で僕と向かい合わせに座っていた彼女が、隣に座る"ふくよかなおばちゃん"を指さしながらとその場を上手く誤魔化してくれたのだった。

「お前は返事が遅いから指示を理解したのか分からへんのや」

「適当に『はい、はい』と答えてればいいと思う」

 上司の小言に対して、彼女が貴重な助言をくれた。

 話の流れで上司には11歳年下の妻が居ると発覚して、社員一同に「犯罪や!」と褒め称えらていた。

 また、その上司の息子は毎週ポケモンを観ているらしく、その場でポッチャマの絵を描き上げたが、年甲斐もなく中々上手だったので少々驚いた次第だ。

 当時はまだ飲酒をしたことがなかったので飲みやすい酒は何かと彼女に聞いたら「カクテルは飲みやすい」と薦められたので、とりあえず"カシスオレンジ"を注文することにした。

 カクテルを持ってきた店員に戸惑いながら年齢確認された後、初めて飲んだカクテルの味はジュースと大差ないとしか言えなかった。

「私も飲んでいい?」

 物思いに耽っている内に飲みかけのカシスオレンジは彼女に横取りされてしまった。

 ブルーベリーソースの添えられたサイコロ状のチーズを黙々と食べる僕の様子を、母のごとく彼女は微笑ましそうに見つめていたが、事務員が執拗に乾杯を要求してくるので仕方なく注文した生ビールで乾杯に応じた。

「へえ、乾杯するんだ?」

 彼女に軽蔑の目で一瞥されたが、めげずにビールを口に含んだ。

 そうして思わず渋い顔をしてしまった。

「ビールは舌で転がすもんやなくて、のどごしを堪能するもんや!」

「彼はソムリエですから」

 上司の助言に、すかさず彼女が合いの手を入れてくれたのだった。

 それから酔いが回り、事務員と横になって休んでいたら、いきなり足裏マッサージで彼女に叩き起こされた。

「痛い?」

 そう言いながら、彼女は少しご立腹の様子だった。


 事務員がお座敷に連れて来た子供二人を見て、彼女は「かわいい!」と率直に嬉しそうな反応を示していた。

 彼女の幸せは温かな家庭の中にあるのだと直感した。

 円満な家庭を築いたら、彼女はきっと幸せになれるだろう。


「俺は外国人には優しいからな」

 唐突に上司が語り始めた。

「俺は在日韓国人やけど見た目は日本人やから、韓国で韓国語を話すと周囲とびっくりされるんや!」

 そんなどうでもいい話を語り出し、ついにはパキスタン人も雇ったことがあるという話題まで飛び出したので、なんだか己の所在地が判らなくなりながら話に聞き入っていたら、突然その上司に胸を揉みしだかれて身じろぎをした。

「嫌がってる……」

 目前の彼女はぽつりとと呟き、微笑ましそうにそのあるまじき光景を観察していた。

「なんでうちの会社の女はみんな胸がないんやろうか?」

 それに乗じて無駄口の多い初老の同僚が本心からの愚痴をこぼし、女性達から顰蹙《ひんしゅく》を買っていたのだった。

 上司の武勇伝が続くお座敷のテーブルの下で、彼女に無理やり靴下を脱がされたかと思うと、今度は僕の太ももの上に足を乗せてきた。

 たぶん黒いストッキングを脱がしてほしいという意思表示だったのだろうけど、流石にそんな勇気は当時の僕にはなかった。

 案の定アルコールを摂取し過ぎてトイレで盛大に吐いてしまった直後、彼女が扉を開けて入って来た。

「大丈夫?」

 心配そうに声を掛けてくれたが、もし僕が用を足していたら大変な事態になっていたような気がしないでもない。

 とにかく自分は夢でも見ているのではないのかと思うほど幸せなひと時だった。








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 帰り道、彼女の方から手を繋いできた。

「今日は手が冷たいね。手が冷たい人は心が温かい」

 恋人繋ぎのまま手を引っ張られたので腕が少し痛んだが、彼女の左腕にあるリストカットの痕を思うとたいした痛みじゃなかった。


 しばらく歩いているとタクシーの前で別れ際に抱擁する〝中年の男女〟が居て、それを真似るような形で彼女に抱きつかれた。

「私の部屋に来ますか?」

 そう聞かれたので躊躇わずに一度だけ頷くと、彼女は満面の笑みを浮かべた。


 生まれて初めて自分という忌み嫌われた存在のすべてを胸に抱きとめられて全肯定されたような心持ちになった。

 どこか諦めて迷いながら選んだ道だったが、彼女と出逢ったことにより、死なずに生きる道を選んだことが間違いではなかったと素直に思えたし、生きる価値や意味を見出すことが出来た。

 少なくとも僕にも人を愛する権利と心が僅かでもあることを知れたのだった。

 そうして、これまでに起きたすべての出来事は彼女と出逢い、意思疎通してそこから人生の意義を学ぶためにあったのだと覚り、果てには自分はこの日のために生まれたのだと直感した。

 同時に人と心を深く通わせるのはこれが最初で最後になるのだろうと予感した。

 だから僕にとって彼女は最初で最後の最愛の人になるだろう。

 喩え世界中に忌み嫌われ、その存在を無視して否定されようとも、彼女が僕という存在を抱きしめて全肯定してくれた過去は、僕の人生において最も大切な記憶に他ならない。

 この先どんな困難が待ち受けていようと、僕の記憶には彼女と過ごした僅かで確かな日々が今も息吹いている。

 それが一過性に過ぎない勘違いだろうが何だろうが、もう二度と困難を前に絶対屈しないと心の底から誓う次第だ。


 繋いだ手はいつか必ず放さなければならない。

 それでも彼女と伴に同じ道を歩いた記憶と温もりは決して失われはしない。


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nohito@[no-hit record] · 나는 나의 나 나의 것

 当時製作に携わった商品は神戸ハーバーランド「モザイク」の婦人靴屋にて販売されました。








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弥生時代

 弥生時代(紀元前3~5世紀 – 3世紀中頃)。西暦239年に邪馬台国の"卑弥呼"が、魏の都・洛陽に使者を送り、「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印を与えられたことから、邪馬台国の存在が有名な歴史書『三国志〈魏志倭人伝〉』に記載されました。しかしながら、その情報量は少なく、約2,000文字の一節だけです。

三國志×横浜市交通局|4gamer.net

「卑弥呼は約30の国からなる倭国の都として邪馬台国に住居する」という内容が記されており、近代に入ってから日本もそれを正式な史実として認知しました。

 倭国では内乱が絶えませんでしたが、女王"卑弥呼"が統治することによって治まりました。

▽『魏志倭人伝』

◆原文:「其國本亦以男子爲王,住七八十年,倭國亂,相攻伐歴年,乃共立一女子爲王,名曰卑彌呼。事鬼道,能惑衆,年已長大,無夫壻,有男弟佐治國。自爲王以來,少有見者,以婢千人自侍,唯有男子一人,給飲食,傳辭出入。居處宮室,樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衞」

◆翻訳:「その国、以前は男子を王としていたが、70~80年ほど過ぎて倭国は乱れ、互いが何年も戦争をする事となった。そこで各国が共同で一人の女子を王とした。名を"卑弥呼"という。卑弥呼は《鬼道》に優れ、民衆の心を掌握することができた。女王となった時すでに成人だったが夫はなく、弟が居て国を治めるのを補助した」

「鬼(き)」とは、魏では死者の霊魂や霊的存在を意味したようです。《鬼道》はシャーマニズム的な呪術という解釈の他に、当時の文献では《儒教》にそぐわない体制を表現する用法があります。このことから呪術ではなく、単に儒教的価値観ではない政治体制を意味するという解釈もあります。

《鬼道》とは、《神道》の元にもなった原始宗教《シャーマニズム》と考えられます。シャーマンと呼ばれる人物がトランス状態(興奮して自我を失った状態)に入り、神と交信をしてそのお告げによって政治をおこなうというものです。シャーマンの卑弥呼は、神の言葉を聞くことが可能であったために、女王に選ばれたと考えられます。

 本来の巫女は霊を自分に乗り移らせて、霊の言葉を代わりに話すことを得意としたという記録があることから、本来の巫女とはシャーマンのことで、そもそも巫女の語源は卑弥呼という説もあります。

『魏志倭人伝』の「年已長大」を直訳すると「すでに年老いた」になりますが、この「長大」は「すでに成人になった」という意味にもなるそうです。学習サイトを読むと、一般的に「高齢」という翻訳が多いようですが、真相はいかに……?

「邪馬台国」と「卑弥呼」の当て字について

「邪馬台国」や「卑弥呼」という字は魏側のつけた当て字ですが、『日本書紀』には「夜摩苔(ヤマト)」という表記があります。このことから、倭人の発した「ヤマト」の発音に当て字をした結果、ご都合により「邪馬台国」という邪悪な字になったのだと推測できます。

・古代中国語音の「邪馬台」:[jya-mea-də]

・唐代の漢字音「夜摩苔」:[jya-muai-də]

・邪馬台国=ヤマト

・卑弥呼=日の御子

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 邪馬台国の政治は卑弥呼の弟が担当していました。弟は卑弥呼の側近として、表に顔を出せなかった姉の卑弥呼に代わり、表に出て卑弥呼の占いの結果を言伝として民衆に伝え、政治を取り仕切っていました。

 ちなみに邪馬台国の位置について意見が分かれる理由として、『魏志倭人伝』には「邪馬台国は九州から船で三日間ほど南下した場所にある」と書かれていたことが挙げられます。その記述が事実だとすると、邪馬台国は太平洋沖にあったことになります。その所為で邪馬台国=沖縄説というとんでも説も生じました。

 おそらく使者の報告や記載のいずれかにミスがあったと考えられるでしょう。もしくは、帰国が遅れた理由を問われて「思いのほか遠くにあった」と虚偽の申告をしたのか。たとえば邪馬台国を訪れた魏の使者のために三日三晩ほど祝杯の宴会が繰り広げられて帰りが遅れたとか。

 三国志時代は上役からくだされた目的を果たせなければ処刑(七歩のうちに漢詩を一句書かねば処刑〈曹植の逸話〉、海の向こうのどこかにあるという亶州という国〈倭国説あり〉を発見できなければ処刑〈孫権の逸話〉、三日までに十万の矢を集められなければ処刑〈小説『三国志演義』孔明のエピソード〉)等も当たり前だったので、嘘も方便ということでありえなくもないと思うしだいです。

▽邪馬台国の統治国
「対馬(つしま)」「一支(いき)」「末盧(まつろ)」
「伊都(いと)」「投馬(とうま)」「不弥(ふみ)」
「斯馬(しま)」「巳百支(しはき)」「伊邪(いや)」
「都支(とき)」「弥奴(みな)」「好古都(ここと)」
「不呼(ふこ)」「姐奴(そな)」「対蘇(つそ)」
「呼邑(こお)」「華奴蘇奴(かなそな)」「鬼(き)」
「為吾(いご)」「鬼奴(きな)」「邪馬(やま)」
「巴利(はり)」「支惟(きい)」「烏奴(うな)」
「蘇奴(そな)」「躬臣(くし)」「奴(な)」

 卑弥呼のシャーマン(呪術師・巫女)としての能力は「大衆を惑わす」と評されるほど甚大でした。倭の女王国・邪馬台国は周辺の30余国の中で最も大きく、政治的組織の官制が整っていましたが、武力ではなく共立された権力だったので、当初の政権基盤は弱いものだったとされます。邪馬台国の男性は刺青をして髪を結い、頭に布を巻きつけており、女性は布の真ん中に穴をあけて、そこから頭を出す服を着て、髪はうしろで束ねていました。

 ちなみに南宋の儒学者"金履祥"の著書『通鑑前編』に、「日本から来た使者が『我々は呉の太伯の後裔だ』と言った。呉は亡び、その子孫が海を渡り、倭国にたどり着いた」と書かれているそうな。確かに呉の中には刺青を掘り魚を食べる風習もあったそうです。それは弥生人や縄文人の文化とも一致しますが、真相のほどはいかがなものでしょうか。

「倭人の始祖が太伯の末裔」という説について、日本では南北朝時代の禅僧"中巌円月"が「日本は太伯の末裔」と論じました。一方の北畠親房は著書『神皇正統記』にて「日本ハ呉ノ太伯ガ後也ト云」とあるのを批判し、室町時代の一条兼良も『日本書紀纂疏』で太伯末裔説を批判しました。江戸時代に入ってからは、儒学者の林羅山は『神武天皇論』で神武天皇の太伯末裔説を肯定しました。イエズス会宣教師ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』では、「神武天皇は太伯の2番目の弟の季歴の第6代の子孫」と記しました。

 明治生まれの日本史学者"千々和実"(ちぢわみのる)氏は、綿密な考証を経て「3世紀の倭人が対内的に王権を強化するため、また対外的に威望を挙げるために、自分たちの民族の始祖を太伯に結びつけて名乗ったのだろう」と指摘し、この「倭人自称説」を肯定しました。ちなみに「日本の始祖が太伯の末裔」という記述を見て憤慨した徳川光圀が『大日本史』を編纂させたとする伝説もありますが、これは事実ではないようです。

狗奴国の台頭

 晩年の卑弥呼は、敵対勢力の「狗奴国(くなこく)」との戦の渦中に亡くなりました。

 狗奴国は、邪馬台国の南(熊本周辺)にある男子を国王とする勢力でした。断髪と刺青の習慣のある漁業民の国で、邪馬台国の統治下に唯一ならず、九州北部以外の西日本と、東日本の北陸・東海・信州までを武力で制圧していました。また、この狗奴国が後の古代出雲になったとも推測されます。

オタクくんさぁ - ピクシブ百科事典

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"From Noon Till Dawn" | YouTube

 卑弥呼の亡き後の邪馬台国でも男王が専任されましたが、統治は難航し、諸国は分裂して各地で反乱が起こりました。卑弥呼が女王に選任される以前の混沌とした状況に戻ってしまったのです。

 そんな最中、当時13歳の壹与(とよ)が女王となり、再び倭国は平和裏に治まりました。

 しかしながら、その壹与を女王とした邪馬台国が、その後どうなったのかは266年の遣使以後は不明です。

 いわゆる空白の4世紀に邪馬台国は、その姿をくらましたのです。

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 神武東征伝説を史実と考え、九州の邪馬台国が東遷して奈良の大和王権となったとする邪馬台国東遷説をはじめ、投馬国東遷説、騎馬民族説などがあるようです。もう一つは逆説的に「大和王権によって邪馬台国は滅亡した」とする見解もあります。


 蛇足ですが、平和であるほど縄文時代~弥生時代(邪馬台国)の日本や、タイ王国のように女性の社会的地位が高くなり、戦乱の世になると中世ヨーロッパや中国のように男性の社会的地位が向上する傾向があるようです。

――男は女が育てる。

 女に利用されるのが男の宿命だし、それで成長を遂げるのも男だろう。

三韓征伐


■『朝鮮遠征』("月岡芳年"画, 1880年)

 三韓征伐とは、現在も八幡神社に祀られる第15代天皇・応神天皇の母"神功皇后"が、西暦200年頃に新羅まで出兵して三韓(百済・新羅・伽耶)を服属下においたとする日本の伝承です。

 百済の要請を受け、新羅まで出兵した大和王権軍の軍勢を見た"新羅国王"は恐れおののき、「吾聞く、東に神国あり、日本といふ。また聖王あり、天皇といふ。必ずその国の神兵ならん」と言い、白旗を挙げて降伏したとされます。

 帰国後、神功皇后は兵庫県南部(高砂市~神戸市~西宮市)一帯に神社をいくつか創始されました。

とよあしはら の ちいほ の あき の みずほ の くに

 大和朝廷とは、出雲族と天孫族の連合政権とされます。

「豊葦原千五百秋瑞穂国」

(とよあしはら の ちいほ の あき の みずほ の くに)

 上記は『記紀』における日本の美称の一つで、「豊かに葦の生い茂る原」という意味になります。他にも美称として「葦原中国(あしはらのなかつくに)」もあります。

◆豊国(九州北東部)

◆葦原(出雲〈島根〉)

◆千五百(長門・周防〈山口〉)

◆秋(安芸〈広島〉)

◆瑞穂(吉備〈岡山〉)

 日向族(ひむかぞく)とは、日向国の高千穂(宮崎)に降臨した天孫族の血を引く部族。日向族の数代目の族長・神武天皇は、九州の日向国から、翁や日本サッカー協会シンボルマークとして馴染み深いヤタガラスに導かれ、東に向かい奈良盆地に到達しました。それまで奈良盆地を支配していた出雲族は日向族に屈服し、以後は天皇を頂点とする大和王権が樹立されました。

 史料は数少なく憶測の域を出ませんが、古代出雲王朝の末期には王の座をめぐり二人の太子が覇権をかけて争っていました。しかし、一方の太子が大和王権にくだり配下に収まり、大和王権軍を味方につけられては適わないと判断したもう片方の勢力も大和王権にくだりました。こうして出雲王朝は大和王権と統合されたようです。

 一説によると『日本神話』のアマテラスは邪馬台国の「卑弥呼」がモデルとされ、下の弟のスサノオは男王が統治した「狗奴国の初代国王」がモデルになったと推測されます。ここまで書けばお気付きになるかと思いますが、邪馬台国の政治を司った「卑弥呼の弟」が、アマテラスの上の弟ツクヨミのモデルとなったとの見方もあります。

 もし、それが本当だとしたら、偏にロマンがあると言えるでしょう。

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三種の神器

◇鏡(太陽)=邪馬台国=アマテラス≒卑弥呼
◇剣(武力)=狗奴国=スサノオ≒狗奴国王 or 難升米
◇勾玉(月影)=ツクヨミ≒卑弥呼の弟 or 天武天皇

「八咫鏡(やたのかがみ)」は、アマテラス(天照大神)の岩戸隠れの際に作られた鏡。アマテラスが岩戸を細く開けた時、この鏡でアマテラス自身を映し、興味を持たせて外に引き出すことに成功して、再び陽光がさして世は明るくなりました。今もこの八咫鏡は伊勢神宮に祀られています。

「天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)」は「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」とも称される剣の正式名称。スサノオ(須佐之男命、素戔嗚尊)が出雲で退治したヤマタノオロチ(八岐大蛇)の尾から出てきたとされる剣です。

「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」は岩戸隠れの際に作られ、八咫鏡とともに榊の木に掛けられました。

 古来の《神道》では、《仏教》の「仏像」や、《キリスト教》の「キリスト像」のように、偶像崇拝(信仰の対象を像=イメージ化して崇拝)はされませんでした。

 神社の本殿に置かれる鏡は、「向き合う自分の心をありのまま包み隠さずに写し出す」ことを意味します。

縄文時代

 縄文時代の始期に関しては1万6000±850年前と考えられます。終期は弥生文化の登場を契機としますが、地域差があり、紀元前数世紀~紀元前10世紀頃まで多くの議論があります。また、東北北部から北海道では他の地域に弥生文化が伝来した後も、縄文時代の生活様式が継承されました。それを続縄文時代と呼びます。

 縄文人は体に刺青を掘る風習がありました。その刺青によって、どこの集落の出身か区別していたようです。また、集落ごとにアクセサリーの流行もあり、身に着けている装飾品によっても部族の見分けがなされたようです。縄文時代からファッションの流行があったことに驚きを隠しきれません。

 縄文時代の東北地方は、気候が温暖化していたと考えられます。当時の採集・狩猟・漁猟を中心とした生活では、西日本よりも東日本の方が生活に適しており、関東地方は縄文時代の遺跡が高密度で多く分布しました。

 縄文時代に最も人口密度が高かった関東地方では、当時は最も人口の少なかった近畿地方や四国と比較すると、その30倍の人口があり、東北も5~10倍もの人口があったとされます。縄文時代の末期に、大陸から九州北部や畿内に水田稲作が伝来し、弥生文化が発達しました。東北においても比較的早くに、この弥生文化が伝播したものとされます。

 古墳時代には東北でも、宮城・山形などの東北南部で古墳が造られ始めました。奈良盆地にあった前方後円墳もその頃に造られており、大和王権との交流があったと考察されています。

 その後、東京の都市開発は、まず山を平らに切り崩して整地し、その土砂で海を埋め立てて面積を増やしてから、地面をアスファルトで固めました。一方の長崎や神戸などの西日本は、海から山までの範囲が狭く、坂道をそのままアスファルトで固めたために、坂と階段の多い高齢者にとって住みにくい環境になってしまいました。

 ヨーロッパの街並みはラウンドアバウト(環状交差点)を円形状に建物が整列され、アメリカは四角形に区分けしてビルディングを整列しました。

 東京は江戸の道幅や向きに影響を受けて、建築物は道に沿ってアバウトに並びます。また車道は少なく幅が狭いので、慢性的に交通渋滞が発生します。新宿アルタ前の液晶画面は、ニューヨーク州のタイムズスクエアを参考に作られました。

 神田川の流域は、井の頭公園まで縄文遺跡が多く残っています。井の頭の奥は元々湧き水があり、そこを中心に縄文人の集落がありました。現在の建物の配置は、この縄文遺跡や集落の痕跡が影響を及ぼしているようです。

 いわば縄文時代から時を超えて構築された世界最大級の「縄文式都市」が東京の街並みと呼べるでしょう。

 東京に八幡神社(神功皇后と応神天皇を祀る神社)が多いのは、縄文時代からあった信仰の拠り所を経て、弥生時代につくられた社の名残りとされます。都市開発でも神社や寺院は簡単に移動できないので今も残り続けたのです。明治時代に創設された慶応や早稲田、青山などの大学は、未開発の土地を利用して建設されました。その中で東京大学の敷地内にて弥生式土器が初めて発掘されました。

 このように東京は縄文遺跡や弥生遺跡を多く残す由緒ある土地でもあります。

ほぼ日刊イトイ新聞 - はじめての中沢新一。1
ほぼ日刊イトイ新聞 - はじめての中沢新一。2

 ジャズに並び縄文時代はタモリさんの方が詳しいのでバトンタッチ。

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『運命の赤い糸』5月1日, 2019年

 令和元年二日目。興味本位で伊勢神宮に初参拝する前日に、数年前まで飼っていた犬が夢に現れました。

 目前に件の飼い犬が居ましたが、再会できた喜び以前に鈴緒のような紅白の紐が飼い犬の前足に巻いてあることに気付きました。

 不審に思いながら手を伸ばしたら、自分の腕にも同じように紅白の紐が巻き付いていたのでした。

 その時「私が今世でこの犬と出逢ったのも予め"運命の赤い糸"という縁で結ばれていたからだろう」と紐付けて結論付けた次第であります。

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 幾度となく飼い犬との意思疎通を試みたが、7割くらいは理解に及ばなかった。

 犬は純粋無垢な心でどこまでも飼い主を信頼するから飼うのは荷が重い。
 時々「俺はお前が思ってるほど善い奴じゃないんだよ」と言いたくなるが伝えようがない。

 でも僕はお前の飼い主になれて嬉しかったよ。

 僕は君の飼い主になれて幸せだったけど、君は幸せだったのだろうか。
 少しでも君を幸せに出来たのならいいのだけど。

 今となって言えるのは「生まれて来てくれてありがとう」ということくらいだ。

 もう二度と生き物を飼うことはないだろうけど、思い出を沢山ありがとうな!
 どうか安らかに。親愛なる"カナ"。



※思い出のイメージ画像(『ビルシャナ戦姫 ~一樹の風~』, アイディアファクトリー)








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▼第二十七番 『結』 《運勢大吉》
「答えてくれる人のあたたかさ。周囲の人との結びつきが幸せの鍵。今ある人間関係があなたの生きざまを映します。一人では生きられない。それを知るだけでも人生は大きく変わるのです」 

 いつの日か、かならず“森羅万象”が無に帰すとしても、この世に生まれ"生きる"ことは決して無為ではないと筆者は確信しております。

 君とすごした日々は、君のいないこれからも、かけがえのないものであり続けるのでしょう。

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